まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

とうさんの「ありがとう」

今日は5月20日
三年前の今日まで、わたしはくも膜下出血になったとうさんが、
無事退院出来ると信じていられた。

三年前の今日、わたしは久しぶりにカウンセリングを受けていて、
仙台のとうさんのところへお見舞いに行かなかった。
意識があった最後の日、とうさんは病院のICUで何を見ていたのだろう。
前日見舞ったときのように、車イスに背を起こしてシャッキリと座り、
大きな窓から初夏の町を眺めていたのだろうか。

とうさんが亡くなってからもうすぐ丸三年になる。

とうさんの最後の半年間を、
夫は「大変だったよね、あなたもすっかり疲れ切ってたし」と言う。
でも、必死でとうさんの面倒を見たあの日々を思い返すとき、
わたしの心に浮かぶのはとうさんの笑顔と「どうもありがとな」という声だけだ。

「遠いとご(ところ)来てけで(くれて)、どうもありがとな。
気ぃつけて帰らいん(帰りなさい)」
「あんたは料理が上手いなあ。
いろいろ作って来てけで、どうもありがとな」
「○○ちゃん(娘のこと)が、俺さ(俺に)小遣いで買った飴っこ(飴ちゃん)けだ(くれた)のか?
どうもありがとなあ、帰ったらよっぐ(よく)お礼言ってけろな(くださいね)」・・・。

かあさんを失って半年、まるで堤防が決壊したのかのように、
とうさんを痛みや苦しみが襲い続けた。
それは、80を過ぎても若々しく、
「万年青年」と自他ともに認めていたとうさんとは縁遠かったものばかりだった。
とうさんは時に弱気になったり弱音を吐いたりもしたけれど、
最後の最後まで笑顔で「ありがとな」と言い続けたのだ。

「死とは医療行為の敗北を指すのではなく、
人生最後の行為である」とは、
「パッチ・アダムス」こと医師のハンター・アダムスの言葉だ。
とうさんは聖人君子では決してなかったけれど、
立派すぎるほど立派に「人生最後の行為」のお手本を示してくれたように思う。

何年先のことなのかは分からないけれど・・・。
わたしも、最後まで笑顔で「ありがとう」を言い続けて旅立てたら本望だ。

とうさん、大事なことを教えてくれて、どうもありがとね。