まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

健康で文化的な最低限度の生活とは?

「被保護者」と「生活困窮者」と呼ばれる人たちの

自立を支援する仕事をしています。

役所では「仕事に就く気がありますか?」と尋ね、

「就く気があります」と答えた人たちを

対象者として紹介してきます。

就労を意識した有意義なプログラムを実施し、

半年から1年で対象者をどんどん就労させるように!

というのが役所の意向です。

 

でも、実際に役所から紹介されて来るのは、

そういう「就労へ向かうベルトコンベア」に

乗せるのが難しい人がほとんどで。

心身に病気を抱えていて体調に激しい波があったり、

学習障害発達障害を抱えていて学習面や対人面に

大きな問題があったり、

成育の過程で虐待や差別、苛め等にさらされたことにより

激しい人間不信が根本にあったり…。

仕事に就かずブラブラしているうちにいい歳になった、

という人はほぼゼロです。

職に就いたけれどうまく行かなくて転職を繰り返すうちに…

とか、結婚して子供もいたのにうまく行かなくなって

家族を失いやがて仕事も…とか(病院に放火した

おじさんみたいな境遇の人も多い)、夫のDVから逃れるために

離婚したけれど子どもが小さかったり病気がちだったりして

働くのが難しくて…とか。

そして、程度の差こそあれ、ほぼ全員が人間不信や

対人恐怖などを抱え、他人とうまく関われない状態になり、

社会から孤立してしまっていたのです。

ですから、「就労へ向かうベルトコンベア」に乗せる前に、

現代日本社会で苦しくなく生きられるようにすること」が

まず絶対的に必要になってきます。

「生きていていいんだ」と思えるようになることが、

まずは必要なのです。

それには長い時間がかかります。

 

私がお手伝いしている自立支援事業も例外ではありません。

「居場所」としての役割が大きく、就労にはなかなか

結び付かないまま、年月が経ちました。

でも、参加している方たちとは信頼関係が生まれ、

その方たちも以前とは別人のように元気になって来ています。

自分の意見をまとめて話せるようになったり、

まとめた意見を人前で発表できるようになったり、

文章がちゃんと書けるようになったり、

何より「生きていていいんだ」と思えるようになった、

という方が何人も何人もいるのです。

 

でも。

役所は私たちのことを「対象者を甘やかしている」

と言うんですよね。

「被保護者(生活保護受給者のこと)はお金をもらっている。

それで十分『健康で文化的な最低限度の生活』は送れるはず。

さっさと就労させて、血税によって養われる側から、

税を納める側に回らせろ」と。

 

「健康で文化的な最低限度の生活」に必要なものは、

現代社会に於いてはお金だけではないと思います。

信頼できる人との緩やかなつながりが必須です。

他愛もないことについて話したり、心配されたり心配したり。

顔と名前が分かっていて、いつでも受け入れてもらえるという

安心感がある人たちとの緩やかなつながりが。

それを失った人たちが日本各地でどんな事件を起こしたか。

誰でもよくご存じのことでしょう。

 

「孤独」という日本語が持つイメージは悪いだけではありません。

現に「オレは孤独を愛する男だ」とも言える訳ですし。

そこに落とし穴があると思います。

英語で「孤独」を表す言葉には「alone」と「lonely」の

二つがあるそうです。

前者がただ単に状態を表す語なのに対し、

後者は「どうしようもなく寂しい」というネガティブな

感情を伴う語なのだとか。

後者は腸(はらわた)を絞るようなもので、

とても愛することが出来るものではありません。

そういう状態に長く置かれると、人間は内側から

腐って行くかのように変質してしまうのです。

だからこそ、イギリスでは「孤独担当大臣」が作られたのでしょう。

 

こんな話、役所の方たちは聞く気がそもそもありません。

自分たちだって、いつ「対象者」の側になるか

分かりはしないと言うのに…。

もちろん、私だってそうですし、これを読んでくださっている

あなただって、あなたの親しい人たちだってそうなんですよ。

失職、離婚、疾病などで、簡単に「対象者」になり得るのです。

 

エラそうにごめんなさい。

ただのパートのおばさんの戯言です。