まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

致死率100%の運命

埼玉県ふじみ野市で起こった人質立てこもり事件。

地元の在宅医療を担っていたという若いお医者さまが

撃たれて亡くなる、という結末になりました。

在宅医療を受けていた高齢の母親が最近亡くなり、

その介護をしていた66歳の息子が

お医者さまたちを呼び出して起こした事件だそうです。

「お前たちのせいで母は死んだのだ」

疲れ切った老人に見えた犯人の男は

そんな風に思い、医師たちに猟銃を向けたのでしょうか。

 

撃ちはしませんでしたが、わたしの父が亡くなった時、

老人ホームに対して怒りの気持ちしかありませんでした。

(父を入れた老人ホームは不動産会社が全国展開しているところで、

その後系列のホームで職員による暴行により利用者が亡くなったりもしています。)

怒りの気持ちは収まらず、父の死後しばらく経って料金の精算等に行った折、

どうしてもひと言言わずにはいられませんでした。

さらに言えばその程度のことでは怒りは収まらず、

「あそこのひどい実態を白日の下にさらす方法はないだろうか」

などとだいぶ考えたりもしていたのです。

 

でも。

(父の場合はあのずさん極まりないホームの責任も

小さくなかったと思うものの)どんなに頑張ったところで、

父が亡くなるのを止めることは出来なかったのです。

どんなに気持ちを込めて介護しても、どんなにいい医師に診てもらっても、

どんなにいい薬を飲ませても、いずれ人は亡くなります。

そして、年を取れば取るほど、人は誰でもほんのちょっとしたことで

「死」に引っ張られてしまうようになり、

抗うことが出来ずに亡くなってしまうのです。

それは医師の腕が悪かったためでも、介護する人の気持ちの込め方が

不十分だったためでも、なんでもありません。

人が死ぬのは、命を授かったからです。

そもそも致死率100%の運命を生きているからなのです。

父の死から9年近く経って、そういう思いに至りました。

 

「死は医療行為の敗北ではなく、

人生最後の行為である」とは、「パッチ・アダムス」として知られている

アメリカの医師、ハンター・アダムスの言葉です。

 

患者さんと一緒にに東京オリンピック聖火リレーにも参加なさったという、

今回の事件で亡くなられたお医者さまのご冥福を心よりお祈りいたします。