まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

とうさんの「夢うつつ」~薬の副作用による「パーキンソン症候群」~

何かと話題になっていた加藤茶さんが、
実は薬の副作用による「パーキンソン症候群」を起こしていたことが
ニュースになっていた。
亡くなったとうさんも、薬の副作用による「パーキンソン症候群」を起こした。
そのことについて、記事にしようと思う。

かあさんが入浴中の心不全で突然亡くなったあと、
完全に「うつ状態」になったとうさんは、メンタル系の薬を飲んでいた。
(きちんと医師の処方に従っていた)。
その中の一つ、「ドグマチール」が副作用を起こさせた。

最初に気付いた異変は、「超リアルな寝言」だった。
あれは2013年2月19日のこと。
実家の台所で食事の支度をしていたわたしは、
茶の間で居眠りをしていたとうさんの寝言に仰天した。
とうさんは、起きている時と全く変わらない口調で、
誰かと(と言うより明らかに亡くなったかあさんと)会話していた。
「お茶、淹れてけねか(くれないか)?ああ、どうも」
「あんた、これ、食ってみろ、旨いぞ」
それまでも、ずっと週に2~3回、1回につき10時間くらい家に居てとうさんの世話をしていたし、
通院の付き添いも全部わたしがしていたけれど、
そういう寝言を聞いたのはその時が初めてだった。
「普通の口調で話すような寝言を言うのは、良くない病気の兆候」
何かの本で読んだ気がして、帰宅してからネットでいろいろと調べた。
そして、もしかすると「パーキンソン病」かも知れない、
または薬の副作用で起こる「パーキンソン症候群」かも知れない、ということを知った。

パーキンソン病」または「パーキンソン症候群」かも知れない、
という目で見てみると、とうさんには他にもいくつも思い当たる症状があることが分かった。
まず、歩き方が覚束ない感じになっていたこと。
よく「パーキンソン病」の動画なんかにあるようなすり足ではなかったけれど、
姿勢が急激に前かがみになった感じがしていた。
それから、手先が急に不器用になっていたこと。
お箸の使い方が下手になり、細かいものなどをつかめなくなっていた。
それから、言葉がちょっと不明瞭な感じになっていたこと。
書く字が、ものすごく小さくなっていたことなども、
実は「パーキンソン病」または「パーキンソン症候群」の症状として特徴的だったことに、
その時ようやく気付いた。
(かあさんの死後、自宅に引きこもり状態になった上、
2013年12月10日に自宅で転倒してからは原因不明の腰痛で苦しんでいたとうさんが、
急激に「廃用症候群」を起こしているのだとばかりそれまでは思っていた)

でも、とうさんは「次の通院日でいい」と言ってすぐに病院へは行きたがらなかった。
どんなに説得してもダメだったので、仕方なくわたしはとうさんの様子を見守ることにした。
そして、どんなことがあったか、通院日にお医者さんにきちんと説明できるようメモにした。

とうさんの「超リアルな寝言」は動作を伴うようになっていった。
はたきを掛ける、テーブルを拭く、新聞をめくり、かあさんとお茶を飲む。
夢の中で、とうさんは永遠に失ってしまった、かあさんとの日常を生きていた。
お気に入りの座椅子に座って薄目を開けたまま、言葉通りの動作をするとうさん。
その顔に、かあさんが亡くなったあと滅多に浮かばなくなっていた、
穏やかで柔和な笑みを浮かべて。
・・と、ふっと目を開けて正気に戻り、
「俺、今、はたき掛けてなかったか?」と聞く。
「うん、はたき掛けてた。その前は新聞読んでたみたいだった」
「そうか、夢の中でやってたことそのまんま、身体まで動いちゃうんだなあ」
そう言いながら、とうさんの顔はとても寂しそうだった。
夢の中で取り戻したかあさんとの日常を、夢から覚めるたび、
失い直さなければならなかったのが辛かったからなのだろう。

結局、とうさんの不思議な「夢うつつ」は、ドグマチールの副作用によるものだった。
心療内科のドクターには、「何だか言葉が不明瞭になった気がします」とか、
「手先が不器用になったようで、身体の機能が急に衰えて来たようです」とか、
毎回受診の際、気付いたことをメモ書きしたものを見せていた。
ドグマチールを高齢者に処方すると、「パーキンソン症候群」を容易に起こすことは、
お医者さんにはよく知られているところらしいのだが・・・。
とうさんが服用していた薬の中でドグマチールだけは、
わたしの主治医の精神科の先生に1度だけとうさんを診せた時に処方された薬だったのだ。
もしかすると、それが心療内科の先生の心証を害していたのかも知れない。
パーキンソン症候群」の症状と照らし合わせて見ると、
実はドグマチールを飲み始めてすぐの時期(12月下旬)から、
その兆候が表れていたことを診察時のメモが示していた。
でも、素人の悲しさ、わたしには、そう言った異変に気付いても、
その異変の原因を正しく把握する力がなかったのだ。

3月1日が「次の通院日」だった。
でも、「次の通院日」が「最後の通院日」となり、
「とうさんが自分の家から自分の足で出かけた最後の日」となってしまったのだった。