まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

「毎日かあさん」雑感

一昨日のネットニュースに、西原理恵子さんが毒親だったと

娘さんが告白、という記事が出ていて。

娘さんのブログは一時期閉鎖されていたそうだが、現在再公開されており、

娘さんが書き連ねた、家族への諸々を読むことが出来た。

読んでいて感じたものは、ヒリヒリとした心の痛みだ。

もしかすると100%本当のことではないかもしれないけれど、

あれを書いた人が心底傷ついていて、愛情に飢えてどうしようもない

心の渇きを覚えており、自己嫌悪と自己顕示欲との挟間で無間地獄のように

苦しんでいるのは、まぎれもない事実だと思う。

そして、その原因を作ったのが西原さんだということも。

(西原さんが元夫鴨志田さん以外の人と関係した結果生まれたのが

娘さん、ということを臭わせる記述まであった)。

 

購読していた新聞の関係で、「毎日かあさん」をリアルタイムで

毎週読んでいた。

西原さんが放つ恐ろしいほどの「たくましく生き抜く力」に惹かれて、

図書館で著作を次々借りて読んでみたこともあった。

西原さんは、言うなれば現代の「アメノウズメノミコト」。

しかし、神話の中の「アメノウズメノミコト」が露出したのは乳房だけだったが、

西原さんの場合は局部までドアップで露出するイメージだ。

人々(特に若い女性)が拒絶するような卑俗なことに、自分の恥部までも

全てさらけ出しつつ最深部まで突入し、汚泥にどっぷりと浸かって。

野性的…としか言いようのない絵と言葉とでそれを表現する作風の作家さん。

無頼派、と評されるのもむべなるかな)。

 

様々な著作を読んでみて、西原さんとは、

写真などから受ける明るいイメージ(南国土佐生まれだし)とは違い、

周りの全てを破壊しながら爆走する、重戦車のような人だとの印象を受けた。

とてつもない重さとすさまじいエネルギー。

娘さんの文章から伝わって来たものが「痛み」だとすると、

西原さんの作品から伝わって来るのは「怒り」と「情念」と「無限の物欲」であり、

激しい「嫉妬」が爆走重戦車の推進力の源のように感じられたのだ。

そんな西原さんの作品群の中で、ほのぼのとして時に切ない「毎日かあさん」は

異色かつ出色の作品と位置づけできるだろう。

それが、「アル中でDV夫との別れ→シングルマザーに→元夫がガンになって戻ってくる

→家族4人で取り戻した平和な日常→元夫の死→それを乗り越えて育っていくお子たちと、それをどっしり見守るかあさんとの日々」というロングスパンの中で

綴られていったのだから、子を持つ母なら、どこかしら必ずシンパシーを覚えられる

場面がある。

だからこそ、多くの人に受け容れられ、大ヒット作となったのだ。

 

さて、「毎日かあさん」のファンだったわたしがこのニュースを知った今、

思うこと。

西原さんにとって息子さんは多分「大好きだった元夫鴨ちゃんとの愛の結晶」。

作中で「おバカキャラの息子、文治」として描かれているけれど、

そこには愛情に満ちた母の視線が感じられる。

「鴨志田」という苗字に「雁治」という本名は、

「鳥つながり?自作の『鳥頭紀行』に絡めて?」とも思うけど、

一応「ガンジー」に因んで名付けたらしいし

(元夫鴨志田さんは非常にリベラルな思想の持主だったとのこと)。

一方、娘さんは、多分生まれた時から「商品」。

「ぴよ美」という名でヒヨコの姿にし、

子育て漫画のキャラクター化することを前提に、

「ひよ」と名付けたとしか思えない。

そして、当初ヒヨコの姿だった「ぴよ美」が育っていく過程を、

おバカキャラの文治との兄妹愛に絡め、面白おかしく描いて大儲け!

「何度生まれ変わっても、またかあさんがいいや」などの

名台詞を作中の自分に言わせて世のお母さん方の心を

ガッチリとつかみ、「子育てコミックエッセイ」界のレジェンドの座を

確固たるものにしたのだ。

ネタは浜の真砂の如くいつまでも尽きず、レジェンド西原さんの座は

盤石かと思われたけれど…。

 

思わぬところに落とし穴があった。

はじめから物分かりが良く賢い幼児だった「ぴよ美」ちゃんだったが、

長じるにつれて西原さんよりすべてにおいて高スペックな女性に育つことが

自明の理になっていったのだ。

賢さという点だけ見ても、息子さんより幼少時からはるか上を行き、

レベル違いだったことは、「毎日かあさん」の読者ならだれでも知っている。

それが、西原さんにとっては許しがたいことだったのだろう。

おのれの身体から生じたものが、おのれより高次元のものになることが。

「こいつがあたしより幸せになるなんて、許せない!」

 

でも、それって実は、多寡には激しく差があるものの、

ほとんどの母親が娘に抱く暗い感情じゃないかなあ。

だって、自分たちがかつて持っていたけれど失いつつある(または

すでに失っている)ものを、娘たちはどんどん獲得していくのだから。

ぜい肉のないすんなりとした二の腕や、関節の一節一節まで華奢な指、

シミや小じわと無縁の内側から輝くような肌、つやつやとした髪、

張りと艶のある声、苦も無く新しいものを吸収できる頭脳などなど、

枚挙に暇がないほどのものを。

それを持った娘たちが、これからどんな人生の扉を開いていくか、

その先にどんな世界が待っているのか。

「オンナ」としての感情がほとんどないわたしでさえ、ちょっと

「いいなあ、いいなあ」と思ってしまうくらいなのだ。

況や、かの西原さんをや。

 

でもね、「かあさん」なんだから。

そういう感情に負けてはいけないんだけれど。

何らかの原因で娘に対する負の感情が元から強いひとは、

それに負けて自分の娘を激烈に苛めてしまうんじゃなかろうか。

わたしの母の場合は、わたしが男の子じゃなかったことと、

帝大出だった父に似ていたことが原因だったと思う。

西原さんの場合も、ひよさんに対して元から何らかの

負の感情を強く持っていたことが原因ではないかな?と思う。

だからと言って、自分の娘の精神が壊れるくらい苛めるなんて、

絶対に許されないことだけれども。

 

ひよさんには、強く生き抜いて幸せになって欲しい。

日本国内にいると難しいだろうから、外国、それも英語圏以外の国で

(お兄さんはアメリカの高校へ留学し、英語が堪能だとのことなので)。

どんなに西原さんが売れっ子漫画家でも、それは日本国内限定のこと。

高須クリニック院長がとてつもなく金持ちだと言っても、

それもまた日本国内での話で、世界的に見たら特段金持ちでも、

権力者でもなんでもないのだ。

ひよさんが外国で雄飛するのを、誰も止められやしない。

だから、今は雌伏のとき。

語学力を付けたり、健康を取り戻したりして、時が来たら飛べるように

準備して欲しい。

そして、西原さんが嫉妬のあまり憤死するほど幸せになって欲しいと思う。

インコを病院に連れて行くときは

先日の悲惨な交通事故。

3歳の男の子を含むお二人が亡くなった事故の原因が

「助手席にカゴを置いて病院に連れて行く途中だった

インコに気を取られたから」とあり、

元インコ飼いとして記事を書かねば!と思いました。

 

インコを病院に連れて行く際には、

外の景色が見えなくなるように、カゴやキャリーの外側を

布ですっぽりと覆う必要があります。

そうしないと、自分が飛んでいる訳でもないのに

すさまじい速さで流れて行く風景を見たインコが

パニック状態になったりするからです。

本当はタクシーを利用し、布で覆ったカゴ等を

自分の膝の上に乗せて連れて行くのが一番ですが、

運転して行く必要がある場合は、シートに

覆ったカゴ等を安定させて置き、急ブレーキを掛けた場合に

落ちないように工夫します(シートベルトを掛ける、

助手席の真後ろに置き助手席のシートを一杯まで下げるなど)。

そうした上で、もし途中でインコが不安がって鳴いたら

「大丈夫だからね」「もうすぐ着くからね」など、

穏やかな口調で声を掛けてやってくださいね。

 

目新しい情報じゃなくてごめんなさい。

 

 

 

 

 

致死率100%の運命

埼玉県ふじみ野市で起こった人質立てこもり事件。

地元の在宅医療を担っていたという若いお医者さまが

撃たれて亡くなる、という結末になりました。

在宅医療を受けていた高齢の母親が最近亡くなり、

その介護をしていた66歳の息子が

お医者さまたちを呼び出して起こした事件だそうです。

「お前たちのせいで母は死んだのだ」

疲れ切った老人に見えた犯人の男は

そんな風に思い、医師たちに猟銃を向けたのでしょうか。

 

撃ちはしませんでしたが、わたしの父が亡くなった時、

老人ホームに対して怒りの気持ちしかありませんでした。

(父を入れた老人ホームは不動産会社が全国展開しているところで、

その後系列のホームで職員による暴行により利用者が亡くなったりもしています。)

怒りの気持ちは収まらず、父の死後しばらく経って料金の精算等に行った折、

どうしてもひと言言わずにはいられませんでした。

さらに言えばその程度のことでは怒りは収まらず、

「あそこのひどい実態を白日の下にさらす方法はないだろうか」

などとだいぶ考えたりもしていたのです。

 

でも。

(父の場合はあのずさん極まりないホームの責任も

小さくなかったと思うものの)どんなに頑張ったところで、

父が亡くなるのを止めることは出来なかったのです。

どんなに気持ちを込めて介護しても、どんなにいい医師に診てもらっても、

どんなにいい薬を飲ませても、いずれ人は亡くなります。

そして、年を取れば取るほど、人は誰でもほんのちょっとしたことで

「死」に引っ張られてしまうようになり、

抗うことが出来ずに亡くなってしまうのです。

それは医師の腕が悪かったためでも、介護する人の気持ちの込め方が

不十分だったためでも、なんでもありません。

人が死ぬのは、命を授かったからです。

そもそも致死率100%の運命を生きているからなのです。

父の死から9年近く経って、そういう思いに至りました。

 

「死は医療行為の敗北ではなく、

人生最後の行為である」とは、「パッチ・アダムス」として知られている

アメリカの医師、ハンター・アダムスの言葉です。

 

患者さんと一緒にに東京オリンピック聖火リレーにも参加なさったという、

今回の事件で亡くなられたお医者さまのご冥福を心よりお祈りいたします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

健康で文化的な最低限度の生活とは?

「被保護者」と「生活困窮者」と呼ばれる人たちの

自立を支援する仕事をしています。

役所では「仕事に就く気がありますか?」と尋ね、

「就く気があります」と答えた人たちを

対象者として紹介してきます。

就労を意識した有意義なプログラムを実施し、

半年から1年で対象者をどんどん就労させるように!

というのが役所の意向です。

 

でも、実際に役所から紹介されて来るのは、

そういう「就労へ向かうベルトコンベア」に

乗せるのが難しい人がほとんどで。

心身に病気を抱えていて体調に激しい波があったり、

学習障害発達障害を抱えていて学習面や対人面に

大きな問題があったり、

成育の過程で虐待や差別、苛め等にさらされたことにより

激しい人間不信が根本にあったり…。

仕事に就かずブラブラしているうちにいい歳になった、

という人はほぼゼロです。

職に就いたけれどうまく行かなくて転職を繰り返すうちに…

とか、結婚して子供もいたのにうまく行かなくなって

家族を失いやがて仕事も…とか(病院に放火した

おじさんみたいな境遇の人も多い)、夫のDVから逃れるために

離婚したけれど子どもが小さかったり病気がちだったりして

働くのが難しくて…とか。

そして、程度の差こそあれ、ほぼ全員が人間不信や

対人恐怖などを抱え、他人とうまく関われない状態になり、

社会から孤立してしまっていたのです。

ですから、「就労へ向かうベルトコンベア」に乗せる前に、

現代日本社会で苦しくなく生きられるようにすること」が

まず絶対的に必要になってきます。

「生きていていいんだ」と思えるようになることが、

まずは必要なのです。

それには長い時間がかかります。

 

私がお手伝いしている自立支援事業も例外ではありません。

「居場所」としての役割が大きく、就労にはなかなか

結び付かないまま、年月が経ちました。

でも、参加している方たちとは信頼関係が生まれ、

その方たちも以前とは別人のように元気になって来ています。

自分の意見をまとめて話せるようになったり、

まとめた意見を人前で発表できるようになったり、

文章がちゃんと書けるようになったり、

何より「生きていていいんだ」と思えるようになった、

という方が何人も何人もいるのです。

 

でも。

役所は私たちのことを「対象者を甘やかしている」

と言うんですよね。

「被保護者(生活保護受給者のこと)はお金をもらっている。

それで十分『健康で文化的な最低限度の生活』は送れるはず。

さっさと就労させて、血税によって養われる側から、

税を納める側に回らせろ」と。

 

「健康で文化的な最低限度の生活」に必要なものは、

現代社会に於いてはお金だけではないと思います。

信頼できる人との緩やかなつながりが必須です。

他愛もないことについて話したり、心配されたり心配したり。

顔と名前が分かっていて、いつでも受け入れてもらえるという

安心感がある人たちとの緩やかなつながりが。

それを失った人たちが日本各地でどんな事件を起こしたか。

誰でもよくご存じのことでしょう。

 

「孤独」という日本語が持つイメージは悪いだけではありません。

現に「オレは孤独を愛する男だ」とも言える訳ですし。

そこに落とし穴があると思います。

英語で「孤独」を表す言葉には「alone」と「lonely」の

二つがあるそうです。

前者がただ単に状態を表す語なのに対し、

後者は「どうしようもなく寂しい」というネガティブな

感情を伴う語なのだとか。

後者は腸(はらわた)を絞るようなもので、

とても愛することが出来るものではありません。

そういう状態に長く置かれると、人間は内側から

腐って行くかのように変質してしまうのです。

だからこそ、イギリスでは「孤独担当大臣」が作られたのでしょう。

 

こんな話、役所の方たちは聞く気がそもそもありません。

自分たちだって、いつ「対象者」の側になるか

分かりはしないと言うのに…。

もちろん、私だってそうですし、これを読んでくださっている

あなただって、あなたの親しい人たちだってそうなんですよ。

失職、離婚、疾病などで、簡単に「対象者」になり得るのです。

 

エラそうにごめんなさい。

ただのパートのおばさんの戯言です。

 

 

 

 

「錦鯉」というひとたち

録画しておいた、「M-1」を少しずつみている。

もちろん、結果はとうの昔に知っているけど。

 

1巡目の「錦鯉」のネタを見ながら、結構夜遅くだったのに

(そしてアパート住まいなのに)夫と大爆笑。

もう涙がボロボロ出るほど笑ってしまい、

見終えた途端に二人とも鼻をかむためにティッシュを取りに

走る始末だった。

去年の「M-1」で初めてみた時は、長谷川さんの可笑しさに

数秒でノックアウトされたっけ。

今年も長谷川さんのおかしさは突き抜けていた。

でも、それにも増して、隣にいる渡辺さんのことがとても気になった。

いつも落ち着いていて冷静そのものに見える渡辺さんが、

ネタが終盤にかかるにつれて

長谷川さんの頭を「これでもか、これでもか」と感じられるほど

パシーン!パシーン!と引っ叩いていた。

顔を真っ赤にして頭を引っ叩きながら、突っ込みの言葉を叫ぶ渡辺さんは、

他の番組で感じたことがないくらい興奮しているように見えた。

やがて、いつも通りネタは渡辺さんの

「どうも、ありがとうございました」で終わった。

そもそも、あの真面目そのものに見える地味な風貌で、

日本の挨拶の定番中の定番の言葉を

真面目そのものの口調で言い、

その言葉があんなにも可笑しく響く人が

他にいるだろうか(いや、一人もいない)。

 

上位3組に残ってからの2巡目のネタを見る前に、

「くすぶり中年の逆襲」という、「錦鯉」の本を読んでみた。

読み終えて、渡辺さんは長谷川さんのプロデューサー

だったんだ!と感激した。

長谷川さんが持っている破壊的なまでの「可笑しさ」が

「可笑しさ」として世の人々にちゃんと伝わらないまま、

売れずに年だけ取っていく可哀想な中年お笑い芸人、

というレッテルを貼られて行くのが悲しくて悔しくて、

「この人はこんなに可笑しいんだぞ!

年を取っててもバカだけど、それはお笑い芸人としては

持とうと思っても持てやしない『天賦の才』なんだからな!」

という気持ちで「錦鯉」をやっていることが

エピソードの端々から読む側に伝わってきたからだ。

7歳も年下の渡辺さんのことを長谷川さんは

「東京のお母さん」だと思っているらしい。

「遅刻しないように起きて」「ちゃんと鼻をかんで」

「歯磨きして」「服装はきちんと」…。

「女房役」という言葉はあっても、「お母さん役」はない。

芸人としての日々がきちんと成立するように、

どれだけ頑張っておられるのか…。

 

それにしても。

生きていれば、誰でも悲しいこととは

無縁でいられない訳で。

加えて、人生長くなってくると、悲しいことの度合いが

どんどん増して来る気がする。

子供の頃は「ガチャポンで欲しいものが出るまで…と

思っているうちにお小遣いを使い果たした」程度だったことが、

大抵「大切な人との永遠の別れ」になってくる。

「錦鯉」のお二人が経験した悲しいことも

「くすぶり…」に書かれていたが、それぞれ相当のものだった。

>しあわせはふしあわせをやしないとして

>はなひらく

>どんなよろこびのふかいうみにも

>ひとつぶのなみだが

>とけていないということはない

谷川俊太郎詩集「さよならは仮のことば」所収「黄金の魚」より)

 

「M-1」の1巡目。

とにかく「勝ちたい」という気持ちばかりが

前面に出て感じられた人たちもいた。

「錦鯉」も勝ちたかったと思う。

でも、渡辺さんも長谷川さんも

自分自身のため、あるいは自分たちのためだけに

勝ちたかった訳ではなかったのだ。

…これが「良く齢を重ねる」ということなんだよなあ。

それが、いい意味での「余裕」になり、

「遊び」にもなって。

だからこそ、私たちは「錦鯉」のネタを見て

心の底から安心して笑えるのだ。

 

いいおじさんたち!

これからも応援しています。

 

 

 

 

 

 

 

あの世で花が降るように

ちょっと前にネットで読んだ話。

亡くなってしまったもののことを思うと、

あの世にいるものたちに花が降って来るのだと。

 

それを知ってから、父のことを思います。

父にだけ花を降らせると母が怖いので、時々母のことも。

長年の相棒だったオカメインコのちいのすけのことも思います。

 

父には多分白いつつじの花が、母には白いユリの花が降るでしょう。

じゃあ、のすけには?

頭の上から突然花が降ってきたら、「おかめパニック」起こすかなあ。

 

のすけの頭の上からは大好きだった、はこべの花が降り注ぐことでしょう。

のすけは一瞬ビクッとして冠羽をピン!と立てるけれど、

次の瞬間落ちて来た小さな花に駆け寄って

ショリショリショリ、と食べることでしょう。

…のすけ、そのはこべはね、わたしが降らせたんだよ。

キミのこと、忘れてないよ。

 

今日も亡くなったものたちを思います。

あの世で花が降るように。

ビリー・ホリデイのドキュメンタリー作品"Billie"をみて来ました

仕事の帰りに久しぶりに映画館へ寄り、"Billie"をみて来ました。

頑張って働いた後だったのも悪かったのか、途中でちょっと意識が遠のき…。

ビリー・ホリデイの人生を追っていた(「被害者」じゃないレディ・デイの

真の姿を明かしたかったそう)アメリカの若き女性ジャーナリストが生前集めに集めた、様々な人たちへのインタビュー音声とレディ・デイ自身のインタビュー音声、

ライブ映像、そして道半ばで「ナゾの死」を遂げたという女性ジャーナリスト自身の

音声やご存命の妹さんのインタビューなどが、まるでごった煮のように展開されます。

時系列に沿ってとか、章立てしてとか、見る側が情報を整理しやすくなるような

工夫は全くなし。

挿入されるライブ映像のレディ・デイも、若くて美しくむっちりと肥えた身体から

艶やかなねっとりヴォイスを出していたかと思えば、すぐ後に枯れ枝のように

痩せた身体からカサカサのしわがれた声を振り絞っていたり。

インタビュー音声も幼馴染、友人、ミュージシャン、ヒモなど、まあ様々な人たちの

生音声がどんどんと流され、未整理の情報の海で溺死しそうな気分に。

でも、仕事帰りでヨレヨレの私の頭でも、この作品で言いたかったことは、レディ・デイは「被害者」ではなかったのだ、彼女は「主体的に」乱れた生活をチョイスし、

彼女なりに人生を謳歌しつつ破滅に向かって転がり落ちていった人だったのだ、ということは理解できました(これだけなら、目新しい主張ではないけど)。

個人的に「えっ?!」と思ったのは、「若い女性ジャーナリストの『ナゾの死』が

カウント・ベイシーに関係している」的なニュアンスを感じたことです。

ジャーナリストの妹さんが、お姉さんの死後文字通り死蔵されていた資料を

提供する気になったのも、「お姉さんの死の真相を知って欲しい」という気持ちが

あったためであり、その「真相」というものが、レディ・デイの取材を続ける中で

ベイシー翁に近づきすぎたからだったという「仮説」みたいで(眠くて理解力がさらに落ちてたからそう誤解しただけか?)。

「被害者」はレディ・デイではなく、その取材の途中で「消された」ジャーナリストだったのだ、と言う妹さんの説を周知させたかったのかなあ。

劣化していたはずの映像がデジタル処理され、さらにカラー化された若きレディ・デイは本当に美しく、生命力が光となって身体中からあふれ出て来るかのようでした。

まあ、それが見られただけでよしとします。