まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

透明な波

もうすぐかあさんの1周忌が来る。
 
去年の今頃はかあさんもとうさんも元気にしていたのだなあ、
と時々ため息をつきたくなる。
街でかあさんたちとよく似たお年寄りを見るたびに、
「どうかいつまでもお元気で」と心の中で祈ってしまう。
そして、ちょっぴり涙を流してしまう。
 
かあさんは入浴中の心不全で亡くなったわけだけれど、
実は亡くなるかなり前から元気を失くしていた。
とにかく出不精になった。
何でも億劫がるようになった。
新しいものに対する興味を失い、
最低限の家事をこなした後は、
一日中テレビの前で過ごすようになった。
わたしとねえさんは「うつ病」を疑い、
とうさんにかあさんを病院へ連れて行くようにすすめたけれど、
とうさんは「かあさんはそんな病気じゃない」と言い続けた。
そのうち物忘れがひどくなり始め、
それと前後して食べても食べても痩せていくようになった。
「心臓がドキドキする」と言い、
5分と続けて歩くことが出来ないようになった。
さすがにとうさんも異常を感じてかあさんを内科へ連れて行った。
でも、心臓も血圧もすべて正常、心配はありませんと言われた。
それが亡くなるほんの4か月ほど前のこと。
身体に異常がないと言われたことを受けて、
わたしたちはかあさんに散歩や体操教室への参加をすすめた。
でも、かあさんは「今日は雨降りだから」「暑いから」「風が強いから」
などと様々な理由を付けて家から出ようとしなかった。
そしてとうとう・・・。
 
かあさんのことを思い出すたび、
わたしは不思議な感覚に襲われる。
並んで歩き続けていたわたしたちだったけど、
かあさん一人が遅れ始める。
「歩き続けなくちゃダメだよ」と促しても、
かあさんの歩みはどんどんノロノロとしていき、
やがてその場に座り込んでしまう。
「立って。歩かないといけないよ」
わたしたちはかあさんの手を引っ張って立たせよう、歩かせようとするけれど、
かあさんは駄々っ子のようにイヤイヤをして、
その場に根でも生えたかのように座り込んだままになってしまう。
すると、目には見えない透明な波のようなものが音もなく近づいてきたかと思うと
すーっとかあさんを飲み込んで・・・。
 
とうさんのときもそうだった。
とうさんの場合はかあさんとは違い、
最後まで「歩き続けよう」という気持ちは失わなかった。
でも、身体が言うことを聞かなくなってしまった。
そして動けなくなったとうさんを、
やはり透明な波のようなものがすーっと・・・。
 
この不思議な感覚は何なのだろう。
「死神」とは大きな鎌を持った不気味な姿のものではなく、
静かな波のようなものなのだろうか。
わたしたちはその波に追いつかれないように歩き続けて行く、
その歩みが「人生」というものなのだろうか。
そして、歩き続けられなくなり波に追いつかれたとき、
それが「死」なのだろうか・・・。