まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

とうさんが娘の心に遺したもの

娘は文芸部に入っていて、主にショートショートを書いています。
その内容が「びっくりポン」でして。
愛する人を失った人の話ばかりなのです。
不慮の事故で愛する人を失い、呆然自失状態の主人公が、
いつもの道に突如現れた見たこともない路地に入って行き、
その先にあった「何でも願いをかなえます」と書かれた不思議な店で
愛する人とひととき再会する話とか、
愛する人を失って以来歌うことが出来なくなった男が、
その人が大好きだった歌の楽譜を見つけたのをきっかけに旅芸人となって各地を回る話とか、
猫を抱いたまま舟で川を渡って向こう岸に着いた女性が、
ずっと先に到着して待っていてくれた男性と分かれ道まで不思議な会話をしながら歩く話とか
(もちろん、三途の川を渡った話です)・・・。
そのどれもが、喪失の悲しみと痛みと、そして不思議な透明感とで彩られていて、
そのあまりの意外さに、わたしはただただ驚いているのです。

たった16年しか生きていない娘が、どうしてこんな喪失の悲しみや痛みを知っているのか・・・。

多分、いやきっと、これはとうさんの置き土産です。
とうさんは突然死したかあさんのことを深く深く愛しておりました。
母が亡くなるその日まで使っていた財布に入っていたお金を、
「○子さんが最後まで持っていたお金」と書いた封筒に入れ、
決して使わないように大事に取っておいたりしたとうさん。
そもそも、お見合いしたあと、「八十日間世界一周」の映画を一緒に見に行った時に、
隣の席で屈託なく(と父の目には映ったらしいです)笑う母を見て、
「ああ、こんな風に笑う人と結婚したい」と思ったのが結婚の決め手になったとか、
「私、子供の頃から病弱で・・・。
だから、結婚しても長生き出来ないと思います」と言った母に、
「私が〇子さんのことを長生きできるように大切にしますから」と答えただとか、
わたしのとうさんは、昭和ヒトケタ生まれとは思えないようなロマンチックな人物だったのです。

よく考えて見たら、わたしは子供たちにそういう話を全部したのですよ。
とうさんがどんな風にかあさんを愛していたかとか、
かあさんを失ったあとのとうさんがどんな風に深く悲しんでいたかとかを。
分かりやすいリアクションをしながら聞いていた息子と違い、
むっつりと何の反応もせずに、
ただ黙って聞くともなくそこにいただけ(と愚かな母には見えた)みたいな娘、
でも、実は、心の中で父の悲しみや痛みを深く受け止めていたのですね。
16年娘を見てたのに、わたしは娘のことがちっとも分かってなかったんだなあ。

愛する人を次々突然失い(父は両親のことも突然亡くしていました)、
悲しみにくれるばかりだった父の代わりに、
娘が紡ぐ物語の中で主人公たちは、ひとときとは言え、愛する人たちと再び会う機会を得ます。
または、再び会う日を夢見ながら、歩き続けるか。

亡くなったとうさんは、意外な形で娘の心に残っているようです。