まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

宮川彬良&大阪市音楽団「マツケンサンバⅡ」

とうさんつながりで音楽の話をもう一つ。
 
とうさんはくも膜下出血で亡くなった。
正確には脳動脈瘤からの再出血に伴う脳血管攣縮(れんしゅく)と、
その合併症の脳梗塞により亡くなった。
 
再出血の当日。
とうさんは自力で呼吸することが困難になり、酸素マスクをされていた。
薄く開いたまぶたから、眼球が左右に規則正しく、まるで振り子のように動いているのが見えた。
病院からの知らせで駆け付けたわたしは、そんなとうさんの姿に、ICUで泣き崩れることしか出来なかった。
とうさんは、時折身体や手足を動かしたが、それが随意性のものなのかどうかは分からなかった。
2日目。
とうさんは自力で呼吸できるようになり、血圧も安定した。
東京から駆け付けた息子と枕元で呼びかけたら、
とうさんの目からすーっと涙がこぼれ落ちた。
まぶたから見える眼球は、止まったままになった。
それがいいことなのかどうか看護師さんに尋ねたが、答えは「さあ。」だった。
3日目。
ずっと口も利かない状態だったねえさんと、枕元で歌を歌った。
「月の砂漠」や「この道」など、とうさんやかあさんが大好きだった童謡や唱歌
ボランティアで使っている歌集を持って行っていたので、二人してICUで歌った。
(看護師さんや、他の患者さんたちは呆気に取られていた)
とうさんは、激しく身体を動かし、「あ」と声を発した。
(これが、とうさんが発した最後の言葉になった。
夫は「おとうさんは、あなたたちに必死で『ありがとう』って言いたかったんだと思う」、と言っていた)
「終わり良ければ、全てよし、だな」というとうさんの声が聞こえた気がした。
4日目。
主治医から、とうさんの頭の中でどんどん梗塞が広がっていること、
もう打つ手はなく、いわゆる「植物状態」だと告げられた。
そして、延命措置を希望するかどうか、早急に結論をだして看護師に伝えておくようにとも言われた。
延命措置を断ることにねえさんと相談して決めたあと、仕事だからとねえさんは帰った。
午後5時から30分間の面会時間。
わたしは一人でとうさんに面会した。
とうさんは口を開けて横を向き、すやすやと眠っていた。
元気な時には睡眠時無呼吸症候群があって呼吸が止まったりしていたのに、
本当に規則正しい安らかな呼吸をしながら、穏やかな顔で眠っていた。
・・・と、隣りのベッドにいるおじいさんが、面会に来た娘さんを、
呂律の回らない口調で罵倒し始めた。
「バカヤロウ、、ソンナコトモワカラナイノカ、テメエ!」
とうさんと同じくくも膜下出血だと言うその人は、感情をコントロールする部位をやられたらしかった。
「どうしてそんなこと言うの、お父さん、やめて」泣きながら訴える娘さんの声も耳に入らないように、
「バカヤロウ、コノヤロウ」と繰り返す声を聞いていると、
「・・・なっ、俺はあんな風にはなりたくなかったんだよ」というとうさんの声が聞こえた気がした。
一人で歌を歌う勇気がなく、わたしはとうさんの手を握ったまま、どうしたらいいか困っていた。
・・・と、いいことを思いついた!
わたしは、イヤホンの片方を自分の耳に、そしてもう片方をとうさんの耳に入れた。
そして、耳が遠くなっていたとうさんのために、少し大きな音で音楽を流した。
最初は、チェロの演奏で「わが母の教え給いし唄」。
とうさんの脈拍や血圧を監視してるモニターを見ていると、
すぐに血圧が低下し、脈拍が遅くなりだした。
「この曲じゃダメなんだ、もっと楽しくてにぎやかな曲じゃないと」。
面会時間はあと少ししか残っていなかった。
わたしは、急いで「マツケンサンバⅡ」をかけた。
上様のボーカルは入っていない、吹奏楽だけの演奏。
これ以上はない!っていうくらい、楽しくてにぎやかな演奏が始まると、
なんと!とうさんの脈拍がすーっと上昇したのだ。
それまでは65くらいだったのが、77くらいに。
とうさんには、ちゃんと聞こえているんだ!!!
わたしは、何だかとても嬉しくなった。
そして、「マツケンサンバⅡ」を、最後までとうさんと一緒に聞いた。
「明日は、とうさんの大好きなダークダックスの『銀色の道』を聞こうね。
また明日、来るからね」そうとうさんに声をかけて、ICUを後にした。
それが、生きているとうさんを見る、最後になるとも知らないで。
5日目の朝。
けたたましく携帯が鳴り、とうさんの容体が急変したことを告げられた。
急いで準備して高速バスを待っていたとき、ねえさんからの連絡で、
とうさんが誰の到着も待つことなく逝ってしまったことを告げられた。
わたしは、奇しくもかあさんの死も、とうさんの死も、
仙台とこの町とを結ぶ高速バスの列に並んでいたときに聞くこととなってしまったのだった・・・。
 
わたしの中で、この曲はとうさんとの思い出の曲になった。
実は結構陽気で、悪戯が大好きで、好奇心旺盛だったとうさんにピッタリの曲だったな、と今でも思う。
それと同時に、「聴覚と触覚とは、最後まで残っている」というのは本当なのだとも思う。
だから、もし、この文章を読んでいる方の中に、
誰か身近な人が脳の疾患などで意識不明になっている方がおられたなら、
あきらめることなく、話しかけたり、好きな歌を聞かせたり、手や頬をさすってあげたりして欲しいと思う。
動いたり、声を発したりと言った直接的な反応は得られないとしても、
あなたの真心は、音や感触を通して、必ず相手に伝わるはずだから。