まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

高倉健さん、森光子さん、森繁久彌さん、そしてかあさん

11月10日。
高倉健さんが2014年に、
森繁久彌さんが2009年に、
そして森光子さんとわたしのかあさんが2012年に、
それぞれ亡くなった命日。

かあさんが亡くなって丸三年か。
この三年、ものすごく長かったようにも思う。
生きていたかあさんに最後に会ったのが
もう10年も前のことのように感じられる。

「あのな、お母さん、死んじゃったんだ」
3年前の夜、広瀬通の高速バス乗り場で行列していた時に
とうさんからかかって来た一本の電話、
あの時のとうさんの妙に腑抜けたような口調と声が耳から離れない。

あれが全ての始まりだった。
とうさんの終わりへの始まり。
47年生きていていろんな悲しみを味わい尽くしていたように思っていたけれど、
わたしは実は本当の悲しみなど何も知ってはいなかったのだと
そのあとの半年間で思い知らされることになる日々のあれが始まりだった。

かあさんはパステルカラーのお花にうずもれるようにして、
真っ白な布を敷き詰めた美しい棺に横たわっていた。
お気に入りだったブラウススーツを着て、
生きていた時よりも穏やかな表情を浮かべたかあさんの亡きがらを見て、
わたしは「まるで白雪姫のようだ」と思った。
でも、おとぎ話と違ったのは、
年老いた王子様がどんなに嘆き悲しもうとも、
白雪姫が目覚めることはなかったこと。

かあさんを失ったとうさんほど深い悲しみを抱えたひとを見たことがなかった。
連日高速バスで仙台の実家に通いながら、
とうさんの話に朝から晩まで付き合い、
どうにかしてその悲しみを吸い取ってあげられたら・・・と頑張ったけれど、
とうさんの命は、
まるで手のひらからさらさらとこぼれ落ちる砂のように、
留めておこうとしてもどうにもならないまま、
半年後に消えてしまったのだった。

雨の中、墓参りに行った。
菊の花が大嫌いだったかあさん、
だから産直で買った花で作った花束に菊は入れなかった。
白と薄紫のストックと、薄桃色のダリア、
そして黄色いセイタカアワダチソウ
予算の都合でかあさんが大好きだったユリの花は入れられなかった。
お墓に着いて見たら、もうねえさんたちが墓参りに来たあとで、
たっぷりとユリの花を入れた豪華な花が供えられていた。
ちょっとだけ悲しかった。

去年のかあさんの三回忌以来、ねえさんに会っていない。
きっと世の中の人びとは、親の命日には兄弟姉妹で集まって、
思い出話をしたりしながら、悲しみを癒すのだろうと思うけれど、
わたしにはそんな風にできる相手がいない。
唯一そんな風にできる相手だったとうさんも、
亡くなってしまったのだから。

まるで10年のように感じられても、実際には3年は短いもの。
それが証拠に、今でもわたしは、町でとうさんたちと良く似た背格好のご夫婦を見かけるたび、
涙ぐんでしまったりするのだ。