まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

戦争は日本人の間にも消えないわだかまりを残した

*文中、何か所も差別的な表現が出て来ます。
 読んでお気を悪くなさる方もいらっしゃるかも知れません。
 でも、父が話していた通りを記す必要があると思い、
 あえてそういった表現を用いました。
 最初にお詫びいたします。


70年前、とうさんは15歳、ミッションスクールの中学3年生、
かあさんは9歳、国民学校の4年生だった。
毎年夏になり、「終戦特集」が組まれる頃になると、
晩酌しながらとうさんはよく自分の経験した「太平洋戦争」の話をした。

「土百姓の奴らには、ひでえ目に遭わされた」
どの話を入り口にしてもとうさんの思い出話は必ずここに行きついた。
敗戦後、国からの食糧の配給が止まり、
田舎に親戚が全くなかったとうさんの家では、
郊外の農家へ食料を分けてもらいに行かなければ食べていけなくなった。
訳あってその頃家で唯一の男手だったとうさんは、
背嚢に物々交換用の品を詰め、
汽車に乗って買い出しに行く役目を担っていたそうだ。
「あいつらめ・・・人の足元見やがって・・・」
戦争中は国に言われるがまま作物を供出していた農家の中には、
敗戦で国の仕組みが滅茶苦茶になると同時に、
作物を手元に置き物々交換で売るようになったところもあったらしい。
そういう家では、人々が次々に品物を持って来るようになると、
どんどん交換のレートを引き上げて行ったそうだ。
「こんな安物だの何だのって言いやがって・・・人の弱みに付け込んで、
あいつら・・・」
そして、とうさんの話の最後は必ず、
「だから、俺は百姓は大っ嫌い。どん百姓め、
人が困ってたときにてめえらが一体何をしたか!って思うね」
で終わるのだった。

「あら・・・うちなんか、食べ物なんていつもいくらでもあった」
ちょっと得意そうな口調でかあさんの話が始まる。
「いつも白いご飯だったし、水あめなんか一斗缶がいつもあって好きなだけなめてたわよ」
田舎の出身だったかあさん。
かあさんのとうさんは尋常小学校しか出てなかったけれど、、
元々目端の利く人だったのだろう、一代で財を成して結構な実業家になっていた。
そのためか、
「バターでも、砂糖でも、水あめでも、お米でも何でもあった。
あたしは身体が弱かったから、ごはんにバターと醤油かけて食べさせられたんだけど、
それがまあ、嫌で嫌で・・・今でも乳臭いものはみんな嫌!」
すると、とうさんの口から
「・・・非国民」という言葉が必ず出るのだった。
「非国民だ、あんたの家は。
俺たちなんかなあ、どん百姓に散々足元見られた挙句ようやく手に入れたものをなあ、
警察に見つかったら取り上げられるんだよ。
汽車に乗ってるとどこからか、『仙台で警察の手入れがあるらしい』って噂が流れて来るから、
2つとか3つとか手前の駅で降りてなあ、
暑い中重い背嚢しょってよっこらよっこら歩いたんだよ、俺は。
裏道通って歩いててもなあ、警察に見つかって
『その背嚢の中身を見せろ』って言われたことがあってな、
走って逃げようにも重いしくたびれてるしろくなもん食ってなかったから力が出ないしで、
おとなしく言うなりになるしかなかったんだよ、こっちは。
そうやって、こっちが苦労して手に入れたもんをだなあ、
お巡りは何の苦労もせずに取り上げたんだよ」
「・・・取り上げて、配給に回すの?」そうわたしが尋ねると、
「けっ、あいつらがそんなことするかよ、てめえが持って帰って自分の家族と食ったの!
戦争ってのはそういうもん。キレイごとじゃないんだからな。
負けるまではまだマシだった。
本当の地獄を見たのは負けたあと!」
「うちは別に地獄でも何でもなかったから」
「・・・あんたの家は非国民だったからだろう!」
そして、なんとなーくキナ臭い空気が台所に漂うのだった。

高校の家庭科の時間。
先生が少女時代の思い出を話してくださったことがあったのだが、
その先生は、
「母のお嫁入りの晴れ着も『こんな安物!』って言われて、
ほんのちょっとのお米と引き換えにとられてしまったのです。
帰り道母は黙って泣いておりました・・・。
ですから、わたくしは、お百姓が今でも大嫌いです!」
と言いながら泣いてしまわれた。
うちのクラスにたった一人だけ農家の子が居て、
日本史の時間だったかに
「うちの蔵には、塗り物のお重とか台付のお膳とか花嫁衣裳とか、
たくさんあります」と得意そうに話したことがあった。
その先生の話を聞いた途端、口には出さなかったけれど、
「あの人の家・・・そうやってみんなから取り上げた品だったんだな」と思った。
多分、同じように思った子は多かっただろうと思う。
農家の子は、何も言わずに下を向いていた。

「戦後70年。焦土となりすべてを失った状態から、
国民は一丸となって復興に向かって努力し、
必死で働いて世界と肩を並べる平和国家を作りました」
そんな風に単純化して戦後をとらえようとする風潮があるように思うけど、
実はそんな簡単な話じゃなかった。
国民の間にも、心の中に消えないわだかまりとか、
溝とか、亀裂とか、たくさんたくさん残したのだ。
そういうものを噴き出させないようにするためだったのだろうか、
とうさんは晩年あまり戦争の話をしなくなった。
そして、亡くなってしまったのだった。