まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

仙台空襲について親から聞いたこと

今日7月10日で仙台空襲から69年が経ったそうだ。
 
わたしは亡くなった両親それぞれから
仙台空襲について聞かされて育った。
 
わたしのとうさんは当時15歳、仙台市中心部にあったミッションスクールの生徒だった。
住んでいたのは仙台駅の東側、駅からほんの数百メートルのところ。
爆撃が始まると、駅の西側からすさまじい炎が上がるのが分かったそうだ。
「もう逃げたって仕方がない、どうせ死ぬんだ」と思って家に居たらしい。
B29からバラバラと落とされる焼夷弾が美しかったそうだ。
結局戦前は赤線地帯だった駅の東側には焼夷弾は落ちず、
実家がある辺りも無傷のまま残った。
翌日様子を見に駅の西側へ行ってみたら、地面はまだものすごい熱を帯びていて、
焼け死んだ人や馬の遺体がゴロゴロしていたそうだ。
 
わたしのかあさんは当時9歳、仙台から数十キロ離れた県北の田舎町に住んでいた。
かあさんが住んでいた町から仙台の方向を見たら、
空が真っ赤になっていて、風に乗って「うわーっ」という人々の悲鳴のような怒号のような声が
聞こえてきて恐ろしかった、と言っていた。
(「あんなに離れたところまでそんなものが聞こえるはずがない、
あんたの思い違いだろう」ととうさんは一笑に附していたが、
かあさんは「絶対に聞こえた、あんなに恐ろしい声を聞いたのは、
後にも先にもあのときだけだった」と死ぬまで言っていた)
 
先の大戦が終わって約70年。
その記憶を持った人々もどんどん亡くなって行く。
そして、我が国は戦争を知らない世代の首相が主導して、
集団的自衛権の行使を容認することになってしまった。
政治家なんて、大抵が政治家の二世、三世がやっているんだから、
先の大戦の時にも大変な思いをせずに済んだ人たちの子孫が殆どなのだろう。
国民が舐めた辛酸など他人事でいられた人たちの子孫が、
何食わぬ顔をして、また国民を戦禍に巻き込もうとしているような気がしてならない。