まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

「#Me too」運動を巡る動きから考えたこと

女優たちが黒い服を着て「Me too」運動への賛同を表したかと思えば、
それを批判する動きを見せたりしている。

こういうものを見るたびに感じることは、
「世の中って『1枚岩』じゃないんだなあ」ということ。
そして、「女性だからと言って、みんな価値観が同じという訳ではない」
という当たり前のことに改めて打ちのめされたりする。

わたし自身、同じような経験をしたことがある。
わたしは、レイプ…こそされたことはないけれど、
小6の時にトイレに連れ込まれて性的いたずらをされたのを皮切りに、
大学卒業までに何度も何度も痴漢に遭ったり露出狂に追いかけられたりした。
大声を出そうにも、身体が硬直してしまい、情けない小声を出すのがやっとで、
圧倒的に力に勝る相手に好きなようにされてしまう自分のふがいなさ。
そして、「お前が悪いんだ」と母親に何度も罵倒された時の切られるような心の痛み。
何よりも、悪夢のような記憶を消そうにも消せない、穢れた自分への嫌悪感…。

そう言う気持ちは、女性ならば誰でも分かっているものと思っていた。
でも、それは自分の思い込みに過ぎなかったことをある日思い知らされることになった。
ひょんなことから知り合った、アパレル関係の仕事をしている女性が、
「痴漢にも遭わなくなったら女もおしまいよね~」と言ったのだ。
「痴漢に遭ってるうちは、まだまだ捨てたもんじゃない、って言う感じ?
女として見てもらえてるんだって、おかしな安心感を持てる、みたいな?」
ものすごく不愉快になったけれど、
波風を立てるのが嫌で、わたしは黙って聞いていることしか出来なかった。
「口説かれる魅力が無くなったら、女としておしまい」
そう主張しているカトリーヌ・ドヌーブを見ていたら、
数年前にわたしの前で先の戯言(としかわたしには思えなかった)を
言い放ったアパレル女史の顔が浮かんで来た。
彼女も、「女性性」を前面に押し出して、
それを仕事に十二分に利用している類の人だったっけ。

片方の極に「#Me too」運動の女性たちがいて、
もう片方の極にカトリーヌ・ドヌーブやアパレル女史たちがいて。
両極から自分たちの主張を言い合うだけでは何にもならない。
まずは、相手の主張の真意を確かめ合うところから。
両極の間にあるどこかに、必ず両者の折り合いが付く場所があるはずだから。