まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

Fさんの「黄金のとき」は・・・。

月に2回のボランティア活動。
2、30人のお年寄りを前に、
一緒に歌ったり軽い体操をしたり読み聞かせしたりといった全体活動をしたあと、
30分くらい傾聴を行っています。

昨日は通所でいらしゃっているFさんという女性のお話を伺いました。
Fさんは認知症ではありますが、
パッと人目を惹く美しい方で、いつもオシャレをして華やかな雰囲気。
同じテーブルに仲良しの女性たちと一緒についていても、
わたしたちボランティアを必ず「独り占め」してしまう、
ちょっと我儘な方でもあります。

わたしは傾聴がちょっと苦手なので、
いつも話のネタになるよう歌の本を持って行っています。
昨日も持っていた本の中から、
次回歌う候補曲にと考えていた「銀座カンカン娘」について、
「これ、次歌おうと思っているんですけど、どうでしょうかねえ?」
とFさんに伺ってみました。
するとFさんは「『銀座カンカン娘』!あらあ、懐かしいわあ~!」と感嘆の声を上げ、
「わたし、若い頃、この歌で散々踊ったわよ、ダンスホールで!」とニッコリしました。

ダンスホールではね、こっちに(とテーブルの片方に指で線を引きながら)男の人、
こっちに(と反対側に指で線を引きながら)女の人が座ってるの。
女はね、男の人から声かけてもらうまではなーんにもできないの!
男の人ってね、ちゃーんとダンスの上手い女が誰か見ててね、
声掛けるのよ。・・・あたしはね、トップ切って声掛けられたの、ダンスがとっても上手かったから!
ジルバでもサンバでもタンゴでもブルースでも、それこそ何でも踊れたの!
『ニュー銀座』と『くにのり』って二軒ダンスホールがあったのよ!
女はね、男の人から声かけられるまではなーんにもできなくてね、ただ待ってるだけだったの!
ダンスの上手い女が誰なのかって男の人は良くみてるもんなのよ、
だから待ってても声かけられない女もいたわけ!
でも、あたしはね、ダンスがとっても上手かったから、いっつもトップ切って声掛けられたの!
何でも踊れたのよ、それこそブルースだってジルバだって何だって!
女がこっちにズラーッと座ってね、男の人は反対側!
それでね、ダンスの上手い女が誰なのか良く見てて声掛けるわけ!
女は声かけられるまではなんも出来ないの、ただ黙って座ってるだけ!
でも、あたしはいつもトップ切って声掛けられたのよ、ダンスがとっても上手かったから!
『ニュー銀座』と『くによし』って二軒、ダンスホールがあってねえ!
中に入るとこっちに男の人、こっちに女の人ってそれぞれ分かれてズラーッと座っててね、
女は男の人に『踊ってください』って声かけられるまでは何にもできないの、ただ待ってるだけ!
でも、あたしはいつだってトップ切って声掛けられたのよ、とってもダンスが上手だったから!
タンゴだってジルバだって・・・」

Fさんは目をキラキラさせながら30分の傾聴時間中、ずっと話し続けました。
お気づきのように、少しずつ表現を変えながらではありますが、
Fさんの話は同じ内容を繰り返しているだけなのです。
(これが「同じ話を繰り返す」という認知症特有の話し方です)
「同じ話を繰り返されると、『もうその話聞いたわよ!」と思ってイライラしちゃう」
と言っていたボランティア仲間も居ましたが、
わたしはこんな風に考えることにしています。
繰り返し繰り返し話すことは、その人にとって非常に強い印象を残した事柄だったのだ、
いろんな意味で「大切なこと・もの」だったのだ、と。
その人がどんな話を繰り返すのかを注意深く聞いていると、
一体何がその人にとって「大切なこと・もの」だったのか、傾向が見えて来るような気がするのです。
(例えば、うちの義父はお金の話をやたらとします。
義父にとって「お金をめぐる事柄」が非常に「大切なこと」だったことが分かります。
繰り返し息子さんの話をする方にとっては息子さんが「大切なもの」だったということです)
それを覚えておくと、認知症の人たちとも案外スムースにコミュニケーション出来る気がします。

今でも人目を惹くほど美しいFさん。
若かりし頃の美しさは如何ほどのものだったでしょう。
しかも、ダンスが上手で、並み居る女性を尻目に先頭切って見知らぬ男性にダンスを申し込まれ、
人々の羨望の眼差しを一身に集めながら軽やかに踊ったその心中の晴れがましさは、
どれだけのものだったでしょう。
その頃こそがFさんにとっての「黄金の日々」であり、「大切なもの」だったのだと思います。

「もうお昼の準備をする時間ですね、今日はこれで失礼します」
そうFさんに声を掛けたら、「あなたはお若いからダンスホールなんて行かないかしら。
でも、そのうちぜひ行ってみて、楽しいわよ~」と言われました。
この町からダンスホールが消えて、もう30年以上になるそうです。