まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

複雑性PTSD

今を去ること25年半前。
結婚して夫と二人、社宅で暮らし始めたわたしは、
原因不明で壊れてしまった。
家で暮らしていた頃は非常に内向的で我慢強く大人しい性格だったし、
友達からも「優しい」と言われていたはずだったわたしが、
自分でも「制御不能」としか言いようのない状態になり、
しょっちゅう夫に向かって暴言を吐き、喚き散らしたりするようになったのだ。

「あなたは、お母さんにされたのと同じことを俺にしたんだよ!
俺はあの頃、毎日泣かされてた、あなたに。
それが、ある日思ったんだ、『何で俺、あんな奴に泣かされてるんだろう』って。
それ以来、俺は泣かなくなった」
今朝、夫に言われたこと。
ショック・・・ではなかった。
ただ、「ああ、そうか、わたしは唾棄すべき母と同類にだけはなるまいと思い、
そうならずに済んだとばかり思って来たけれど、
それはただの思い上がりであったのだ」と思った。

もう、息子にも、娘にも、顔向け出来ないや。
もちろん、夫にも。
夫からEメールが来た、「今日は帰りませんから、カギをかけて早めに休んでください」と。
車で小一時間ほどの実家に泊まりに行くのだろう。

細切れの記憶をたどり、25年半前のことを思い返してみる。
わたしは昼夜問わず、母の幻覚・幻聴・悪夢に襲われていた。
そして、夫に対する情緒不安定。
暴言を吐いたりしていた一方で、わたしは夫の顔色を四六時中伺い、
「ねえ、怒ってる?今、何か怒ってる?」と日に何十回も尋ねていた。
暴言を吐くよりも、ベタベタすることが非常に多かったように思う。
本来、そういう甘えたことをする性格では無かったはずだったのに。
わたしはあの頃、夫のことが大好きだった。
ものすごく、大好きだった。
でも、そんな夫との夜の生活は苦痛でしかなかった。
苦痛、というよりは嫌悪感、身体の芯まで浸みとおるような嫌悪感だった。
「妻の務めなんだから」と思ったし、
「性的不一致は離婚の要件になり得る」とも思ったから、
わたしは必死で夫の相手を務めた。
それは、正直なところ、地獄のような時間だった。
でも、とてもそんなことは言えなかったから、わたしは必死の演技を続けた。
うつ病」と診断されてからも、必死の思いで。

冷静に思い返してみると、あの頃のわたしの様々な異常は、
「PTSD」であったことが分かる。

小学校6年生のとき、母に頼まれておつかいに行った仙台駅前の「エンドーチェーン」で、
わたしは男にトイレに連れ込まれ、性的ないたずらをされた。
わたしの記憶は、蚊の鳴くような声で「人を呼びますよ」と男に言ったところで途切れている。
その次の記憶は、ニヤニヤしながらトイレから出て来る男の姿だ。
その間の記憶は全く無い。
家に向かって歩きながらわたしは、「お母さんに知られたら、絶対にひどく怒られる」と思った。
だから、母には一言もその日のことを話さなかった。
ただ、その日以来、それまで嬉々として一人で出掛けていたおつかいに、
一切行かなくなった。
母がもう少し注意深い人であったなら、きっと娘の異変に気付いただろう。
でも、母はそういう人ではなかった。
自分のこと以外には、興味のない人だったから。
それ以来、わたしは、何度も何度も痴漢に遭った。
ピアノのレッスンの帰り道、その頃は「駅裏」と呼ばれた仙台駅の東口で、
大学へ通うバスの中で、家庭教師の帰りに地下鉄の中で。
母に話したこともあった、でも、母の反応は、
「あんたが大声を出さないからよ!」だった。
わたしは、大好きだったNくんに「大好き」のひと言も言えないうちに、
知らない男にいたずらされ、尻をなでまわされ、堅いイチモツを押し付けられ、
抱き付かれ、勃起したイチモツを見せられた。
そして、「男」という生き物が心底恐ろしくなった。

夫は大学時代の親友だった。
仲良しのうちは良かった、でも、いざ結婚して「男」になった夫に耐えられなかったのだ。

あそこで精神科に行っておくべきだった、と思う。
PTSDの診断なんか、あの頃の精神科医には出来っこなかったんだから、
きっと何か別の病気のレッテルを貼られて、
離婚することになっただろうが。
母や姉にいじめ抜かれ、その上性的な被害にも散々遭って、
あの頃のわたしはとても結婚出来るような状態ではなかったのだ。
そんなわたしと結婚して、夫も立派な被害者だ。
わたしと結婚して不幸になったから、幼かった息子に暴力を振るい、怒鳴りつけたりしていたのだろう。

誰にも気付かれず、すーっと消えてしまいたい、と思う。
でも、そんな夢みたいなことが起こりっこないんだから。

これから先、ずーっと自分を恥じて生きて行くしかないのだろう。