まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

連続ドラマ「あさが来た」には、ADHDが幸せに生きるヒントが詰まってる

*「あさが来た」には実在のモデルがいらっしゃいます。
 その方がADHDだった、というわけではなく、
 あくまでも現在放送中のドラマの感想として書いているということを、
 ご理解くださった上でお読みください。

「あさが来た」、いいですね、痛快ですね。

残念ながら最初の方は見逃してしまったのですが、
最近夢中になって見ています。
主人公の「あさ」の行動が、いちいち納得出来るからです。
そして、なぜそういう行動を取るのか、自分のことみたいに感じられるから。
いつの間にか、「びっくりポン」という主人公の口癖が、
毎日の生活の中で、普通に出てしまうようになりました。
・・・って、今までしょっちゅうしょっちゅう「もう、びっくり仰天!」と言ってた言葉が、
ただ単に「びっくりポン」に置き換わっただけなんですけどね。

脚本家が意図して書かれたものかどうかは分かりませんが、
主人公の「あさ」の行動や思考を見ていると、
ADHDの色が濃く感じられます。
夫や義父に言われているように「泳ぎ続けないと死んでしまう秋刀魚みたい」なところ、
部屋がゴチャゴチャに散らかっていても全く気にならないところ、
常識にとらわれない柔軟な考え方をするところ、
そして、一つの考えにとらわれると一直線に突っ走ってしまうところ、などなど。
もちろん、「びっくりポン」もそうです。
ADHDの目から見ると、世界は毎日驚きや発見でいっぱいで、
右を見ても左を見ても「びっくりポン」でいっぱい、退屈するヒマなんかないのです。

そういうADHDのことを、大抵の大人は(悲しいことに大抵の非ADHDの親も含む)
「落ち着きがなく、いつまで経っても子供っぽい」としか見ません。
そして、「常識ある落ち着いた大人」に育てようと、
ギリギリと締め付けたり、一挙手一投足を注意したりした挙げ句、
「ダメな人間」というレッテルを貼って放り出してしまったりするのです、悲しいことに。

このドラマで「あさ」が、
ADHDっぽさ全開のまま、気持ちよく心地よさそうに暮らしているのには、
大きな秘密があります。
それは、そんな「あさ」のことをありのまま認め、
温かく見守ってくれている身近な人々の存在です。
突っ走ってしまいがちなADHDはよく失敗もします。
でも、どんな時でも温かく見守ってくれる人々の存在があれば、
その失敗をバネにして、一見突拍子もないような解決策を見つけ、
大きく前進することだって出来たりもするのだと思います。

黒柳徹子さんもADHDではないかと言われています。
(著作をいろいろと読んだ上で、多分そうだと思います)
黒柳さんが小学生だった頃、トモエ学園の校長先生だった小林先生は、
「キミは本当はいい子なんだよ」といつも声をおかけになったそうです。
「はーい、わたしはいい子でーす!」と答えていたという黒柳さん、
大人になってからその頃のことについて、
「あの言葉がなかったら、いくら楽天的なわたしでも、
自分をいい子だと思えなくなったと思う」と述懐なさってました。
一見何も考えてなさそうな、底抜けに明るく見えるADHDですが、
実は、(特に子供の頃)とても打たれ弱い一面を持っているように思います。
ですから、そこを理解せずに、「こいつはいくら言っても応えないヤツだから」と、
けなすだけけなしたり、一挙手一投足に小言を言ったりすると、
自己肯定感がゼロどころかマイナスにまで大きく振れてしまい、
ADHDとしての長所を発揮することはおろか、
社会生活を送ることすら難しくなってしまったりもするのだと思います。

ADHDは、植物で言うと、風が当たらなくて日当たりのいい場所に植えるのがいいのです。
そういう場所で、幹や根がしっかりするまで育てると、
あとは厳しい環境の中でもちゃんと育つのだと思います。
風よけになってくれ、太陽が当たるように心を配ってくれる身近な存在が、
ADHDを元気に成長させてくれるのだなあ。
「あさが来た」を見て元気をもらいつつ、毎日そんな風に感じています。