まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

お手伝い

結婚する前、わたしはお手伝いをしない子だった。
 
小さかった頃、わたしはとにかくお手伝いをしたかった。
見よう見まねで一生懸命洗濯物をたたんだ。
かあさんは「あら、下手だこと。
いい、こうやってたたむと・・・ほら、きれいにたためたでしょ?」と言って、
わたしの目の前で全部の洗濯物をたたみ直した。
何の手伝いをしてもそうだった。
かあさんの口から「ありがとう」や「えらいね」という言葉は出て来なかった。
「ちゃんと見てないからよ」とか、
「こうやった方が上手く行くのよ」とか、
「あんたってホントに手先が不器用なんだね」と言った言葉しか出て来なかったのだ。
第一、わたしにお手伝いされると、かあさんは本当に迷惑そうな顔をした。
「ああ、わたしがお手伝いをしたって、役に立つどころか、迷惑にしかならないんだな」
まだ本当に小さいうちに、わたしはそう悟ってしまったのだった。
 
「お手伝いだって教育のいい機会なんだから、それをちゃんと子供の学習につなげてたのよ」
かあさんのことだ、胸を張ってそう言うことだろう。
(残念ながら、もう亡くなってしまったので確かめることは出来ないが)。
でも、かあさんは目先の「教育」を優先して、
子どもの「やる気」を削いでしまうという致命的なミスを犯していたことに全く気付かなかったのだ。
 
・・・そんな訳で、わたしは、自分の子どもたちがお手伝いしてくれた時は、
内心小ッ恥ずかしくなるくらいほめることにした。
「わあ、これ、〇〇ちゃんがしてくれたの?お母さん嬉しいなあ。
とっても助かったよ、どうもありがとう!!!」と言う具合。
子どもたちがまだ小さかった頃なんか、昔のわたしがしたのと同じで、
洗濯物は畳み直さなくちゃしまえない状態だったけど、
それは子どもたちの見てないところでひそかに行った。
それが功を奏したのか、子どもたちは二人とも、何でも嫌な顔をせずに手伝ってくれるようになった。
大学生の息子も、帰省した時には落ち葉掃きでも雪かきでも、
おしゃべりしながら、楽しそうに働いてあっという間に片づけてくれる。
ついでを言うと、アルバイト先でも真面目な態度で熱心に働くので、
結構いい評価をしてもらえてるようである。
 
子どもだったわたしは、結構辛い思いばかりしたけれど。
それが、子供を育てる上で相当役立ってるような気がする。
そう考えれば、かあさんにも感謝しなければいけないのかもね。