まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

カメラ

コンデジも、ミラーレス一眼も、とにかくカメラが売れなくなっているそうだ。
スマホがあれば事足りるから、らしい。
そう言えば、どこへ行ってもカメラを構えてる人ってあまり見なくなっちゃったな。
スマホガラケーで撮影してる人ばかりになった。
 
わたしは、写真はカメラで撮る派だ。
(そして、音楽はウォークマンで聴く派)。
 
わたしが子供だった頃、カメラは子どもが絶対に触れてはならない神聖なものだった。
お正月や誕生日に、父が三脚を出してカメラを据える。
うっかり三脚につまづきでもしたら大変と、そばを通るときでさえ、ものすごく緊張した。
そして、父がファインダーをのぞきながらいろいろと調節をして、ようやく撮影となる。
だから、「写真を撮る」というのは、結構特別なことだったし、
その中心にあったカメラは、シャッタースピードとか、露出とか、
微妙で繊細な調節が出来ないと使いこなすことが出来ない、「大人のにおい」がする機械だったのだ。
 
わたしが初めて手にしたカメラは、1959年に作られた小西六のカメラ。
父が若かった頃、大卒の初任給の2.5倍もの大枚をはたいて買ったものをもらったのだ。
露出計をカチャッと起こして、絞りとシャッタースピードを調節して、二回巻き上げてからシャッターを切る。
ズシリと重たいボディは、もちろん金属製だ。
初めて写真を撮ったとき、何だかとても晴れがましい気持ちになったことをよく覚えている。
 
時は流れ・・・。
今では、写真を撮るのなんか、特別なことでもなんでもなくなってしまった。
でも、わたしは、写真を撮るたびに、家族の笑顔を捉えようと三脚を据えていた父のことを思う。
そして、一体どんな矜持を守ろうというのか自分でも分かりはしないが、
写真はカメラで撮り続けようと思っている。