まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

「マンゴーの樹の下で~こうして私は地獄を生きた~」を見た

NHKで放送された、
「マンゴーの樹の下で
~こうして私は地獄を生きた~」を見た。

これは、もうすぐ放送予定のドラマと連動した
ドキュメンタリー番組で、
太平洋戦争末期、フィリピンの山中での
逃避行を強いられた民間人(と一部衛生兵など軍属)の
生存者の証言と、故人となった当事者が遺した手記などにより
構成されていた。

民間人の生存者はほとんどが当時子供だった方たちで、
あとは「なでしこ隊」という従軍看護師(無資格の方が
ほとんどだったそうだが)の一員だった女性、
衛生兵だったという95歳の男性などが
実名でインタビューに答えておられた。

中には100歳の方までいらしゃったのだが、
番組を見て非常に驚かされたのが、
皆さんの記憶の鮮明さだった。
しかも、その内容の非情さ、理不尽さ、
過酷さにも関わらず、
(一見すると)淡々と話しておられる様子に
衝撃を覚えた。

「一番末の弟を背負って逃げていた母親が
岩陰から出てきたら弟の姿がなかった」
「(一緒に塩を盗み出しに行った幼なじみが)
戻って2日後に死んじゃった」
「腕を負傷した同僚が点呼の時居なくなっていた。
衛生兵が『始末して来た』というのを聞いた」
「もう助からない人たちを注射で殺した。
自分もいざとなればモルヒネ注射で死ねるという
安心感があった」等々…。

「そんな、文字通りの『地獄』を見たのに、
どうやって戦後正気を保ちながら
この人たちは生きて来られたのだろう?」と
不思議に思うほど、
その方たちは淡々と「地獄」を語られたのだ。
中には穏やかな笑顔のまま、
「地獄」を語る方もいらしゃった。

番組で紹介された方の中には、
長年(多分60年くらいだろう)連れ添った妻さえ
「こんな話、初めて聞いた!」と驚くような話を
なさった方も居られた。
その方から繰り返し出た言葉は
「だって、ええ話じゃなか」。
そして、証言なさったほとんどの方の口から
共通して出た言葉は
「仕方がなかった「仕方ない」だった。

当時子供だった方たちも、
多感な10代や20代はじめの若者だった方たちも、
「地獄」で体験した数々の出来事の記憶を
「人に聞かせる話じゃない」と封印し、
「だって戦争だったんだから仕方がなかった」と
自分自身を無理にでも納得させて
戦後を生きて来られたのだろう。
どれだけ辛いことだったか…と思う。

この番組を通して一番印象に残ったのは、
日本人の父とフィリピン人の母との間に生まれた男性だった。
「敵方に通じている」というあらぬ疑いを掛けられた兄たちを
日本軍とフィリピン人ゲリラにそれぞれ殺され、
戦後はフィリピン人からいじめられたというその方は、
日本で学んだ後、フィリピンに戻ってマンゴー農園を開いた。
現在も非常に美しい日本語で流暢に話すその方は、
「戦前の日本人は本当に素晴らしかった。
素晴らしかった日本人の血が流れていることを、
わたしは誇りに思っています」とおっしゃった。
しかし、その言葉とは裏腹に、
非常に厳しい表情を最後まで崩すことがなかったのだった。

この番組、政を司る方たちは
ちゃんとご覧になっただろうか。
そして、ちゃんと理解なさっただろうか。
どんな「正義」という名の大義名分を振りかざそうが、
戦争は「地獄」を生む
(そもそも、その「正義」、戦争の相手方には
「理不尽なこじつけ」に見えるはず)。
とにかく、戦争という「地獄」に放り込まれ、
酷い目に遭うのは、常に庶民なのだ。
それがどれほどの意味を持つことなのかを
「殿上人」たちが決して理解しないというのは、
洋の東西を問わず、現在に至るまで
歴史が証明していることなのだけれど。