まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

母のリズム、わたしのリズム

平日夜、近所の下宿屋さんで夕飯の後片付けのパートをしています。

毎日の仕事の締めくくりは、食器や台を拭いたふきんやタオル類を洗うこと。
食器洗い用洗剤を溶かした洗い桶で手洗いします。
「ジャジャジャジャジャジャジャジャジャン」とこすり洗いして、
「ザブンザブン、ザブンザブン」とすすぐ。
それがわたしが洗うときのリズムです。

「かあさんはもっと素早いリズムで洗っていたな」
毎晩、手洗いしながら亡くなった母のことを思い出します。

母は亡くなるほんの一年ほど前まで、
全ての洗濯をたらいと洗濯板を使って行っていました。
大きなたらいに風呂の残り湯を桶で汲んで入れ、
そこに粉せっけんを溶かします。
その日洗うものを全てそこに浸けてしばらく置いたあと、
洗濯板を使って次から次へと洗って行きます。
「ジャジャジャン、ジャジャジャン、ジャジャジャン」「ジャ、ジャ、ジャーッ」
洗濯板の上でワイシャツや下着類が素早く伸び縮みさせられながらこすり洗いされ、
みるみるうちに絞った洗濯物がいっぱいになっていく様は子供だったわたしにとって驚異でした。
シーツやタオルケットなどの大物も、
端から順に「ジャジャジャン、ジャジャジャン」とリズミカルに洗われて、
「ジャ、ジャ、ジャーッ」と母に力強く絞られて行きます。
全部洗い終えたら次はすすぎ。
最初は残り湯、二回目は水道水をたらいに張って、
母は「ザブッ、ザブッ」と一つ一つの洗濯物を泳がせるようにしてすすぎ、絞ります。
駄菓子のねじりん棒みたいに絞られた洗濯物がバケツに山盛りになったら、
母はテラスへと向かいます。
「パパーン、パパパーン」とピンと張った大きな音を立てながら洗濯物を振りさばき、
テラスと庭先に作られた物干し場へ干して行くのです。
同じような音を立ててみようとふきんを振ってみても、
わたしがやると「パフッ、パフッ」と情けないような音がするだけなのが不思議でした。
全て干し終わると母は「ああ、やっと終わった。腰、痛くなった」と言いながら、
腰をこぶしでトントンするのでした。

元々猫背だったのが良くなかったのか、
それとも長年腰を曲げて洗濯したのがまずかったのか。
晩年の母は近年珍しいくらい腰が曲がったおばあさんになりました。
父と二人分のわずかな量の洗濯をするのも辛そうになったのを見かねて、
「洗濯機を買ったら?」と勧めても勧めても「わたしの趣味だから」と頑として断り続けていた母。
そんな母が「そうねえ、買おうかしら」と言ったのは東日本大震災のあった年のことでした。
「カビないヤツがいいよ」とか、「いざと言うとき乾燥出来た方がいい?」とか言いながら、
家の近所の家電量販店で洗濯機の品定めする父とわたしとに、
「わたし、疲れたからここに座ってる」と母は言い、イスに腰かけて居眠りしていました。
そして、「これなんかどうかなあ?」と尋ねてもさして興味なさそうな様子で
「どれでもいいから、あんたが決めて」と言いました。
結局「洗濯槽に穴がないからカビない」といううたい文句のものに父と相談して決めました。
洗濯機を使うときに必需品の洗濯ネットも用途別にいくつか買いました。

「真っ白に洗い上がらない」「脱水がきつすぎてシワシワになるのが嫌」・・・。
母のことだから文句タラタラ・・・と覚悟していたのに、母は
「脱水がすごくてすぐ乾いていいわ」「ラクしてきれいになって満足満足」と嬉しそうでした。
そして、洗濯機を使うようになって1年も経たないうちに、母は風呂で突然亡くなったのです・・・。

子供だった頃から、洗濯するときの母の手つきと、洗うリズムが好きでした。
でも、母も亡くなり、わたしも50歳を迎えようとしていると言うのに、
あの「ジャジャジャン」「ザブッ、ザブッ」「パパパーン」とは違うままなんですよね。
母は母のリズム、わたしはわたしのリズムのままなのかなあ。

母はあの世でも「これがわたしの趣味なのよ」と言いながら、
シーツを手洗いして物干しいっぱいに干していることでしょう。
今日は、あの世もきっと快晴!と思うような五月晴れです。