まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

「リトルプリンス 星の王子さまとわたし」について、ネタバレ大ありで考える

*おことわり
 この記事には公開中の映画「リトルプリンス 星の王子さまとわたし」の
 ネタバレが 大いにあります。
 これからご覧になる方は十分ご注意くださるようお願いします。











「大人は数字が好きな生きもの」
サン・テグジュペリの原作にはそういう記述がある。
誰かのことを知ろうとするときに、
その人の本質を問うのではなく、収入などのみを問い、
その答えを得たことで相手を知ったような気になるのだと。
「数字」というのはある種のメタファーであって、
作者が批判しているのは、現代社会の生産性や効率性至上主義である。
そう言った現代社会に跋扈する者たちが、
「実業家」や「うぬぼれ男」「地理学者」「王様」と言った形を取って作品中に登場する。
現代社会は、どんどんスピードを増して行く社会である。
まるで「点燈夫」の星のようにますます速く回り、もう誰も休むことも出来ない。
人々は友情を育む暇もなく、王子さまが訪れた地球は大きいだけの虚ろな星だ。
それを原作中で王子さまに教えるのがキツネだ。
「みんな何でもあきんどから買おうとするけれど、友達を売ってるあきんどなんかいやしないんだから、
もう誰も友達なんか持ってないんだ」と。
キツネに言われるがまま時間をかけて友情を育んだ王子さまに、
別れ際キツネは大切な贈り物をする。
「たいせつなものは、目に見えない。
心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないんだ」
ますます速く、ますます速く、と走り続ける現代社会がすっかり忘れてしまった、
何よりも大切な真実を。

この映画の主人公は、超名門難関校への入学を54日後に控えた少女(名前はない)。
シングルマザーである母親は、少女の人生の全てを厳密に管理し、
自分の考える「勝ち組」のレールに乗せることに全てを賭けている。
仕事にしか興味のない父親は、既に母子を捨て出て行ってしまった。
母親は自身身を粉にして朝から晩まで働きながら、
娘を自分の思い描いた通りの人間にすることのみに必死である。
少女はそんな人生に疑問を抱くこともなく、母親に言われるがまま勉強して生きてきた。
ある町にある、とある家の隣に引っ越して来るまでは。

その家は、全部同じ規格で作られた家が整然と並ぶその町の中で異彩を放っていた。
そこに住んでいるのは一人の老人。
裏庭に壊れた飛行機を置いていて、それを飛ばそうなどと考えている、
近所でも有名な「危険人物」である。
しかし、誰ひとりとして、実は老人のことを深く知っているものはいなかった。
知ろうとする者すらいなかった。
人々の目からすれば、老人は無免許で運転したり、
飛行機からふっ飛んだ部品で近所の家を壊したり・・・と言った、
困り者でしかなかったのだが、本当の老人は「子どもの心を忘れない大人」であった。
そんな老人の心の中には、決して忘れることが出来ない思い出があった。
それは、若かりし頃、砂漠で不時着した時に出会った、不思議な「星の王子さま」のこと。
老人は、隣に越して来た少女に王子さまの物語を読ませる。
初めは「ナンセンス」と受け付けなかった少女だったが、
老人と接している中で徐々に自分が失くしかけていた「子どもの心」を取り戻すにつれ、
老人と深い深い友情を結ぶようになる。
しかし、それは、母親にとっては決して許せないことであった。
少女と老人との関係は一旦は壊れてしまう。
しかし、老人が病に倒れ、もう先が長くないと知った時、
少女はキツネのぬいぐるみをお供に裏庭の飛行機に乗り、
信じられないような冒険に旅立つのだ。

そこで少女が出会った者は・・・「大人の星」に迷い込み、「大人になるための教育」を受けさせられ、
自分が何者であったのかも全て忘れてしまった「星の王子さま」であった。
「大人の星」は超効率至上主義社会であり、
要らない、と判断されたものは全て粉砕され、役立つものへと作り変えられられる。
その星を牛耳るものは「ビジネスマン」であり、
彼は自らが所有する何億もの星を捕まえて、それを粉砕してエネルギーを取り出し、
「大人の星」へと供給している。
色の無いモノクロの世界である「大人の星」では、
うつむいて無表情な人々がただ黙ったまますさまじい勢いで働いているばかりである。
そこに迷い込み、洗脳されて、「不良品」のレッテルを貼られた王子さまは、
何をやっても上手く行かず、今はビルの屋上で清掃の仕事をしている。
少女は王子さまを助け出し、B-612番星(王子さまが元々住んでいた小惑星」に連れて行く。
だが、そこで彼らが見たものは、生長したバオバブに破壊される寸前の荒れ果てた星と、
ガラスの覆いの中で既に枯れてしまったバラの花だった。
絶望感に打ちひしがれる少女と王子さま。
しかし、王子さまの星に朝日が上って来ると・・・。
二人は、その朝の光の中にバラの姿を見る。
その途端、荒れ果てていた王子さまの星は元の姿を取り戻し、
大人の姿だった王子さまも元の子どもに戻る。
その様子を見届けた少女が元の世界に戻って来たのは、
超難関進学校への入学日の朝だった。

・・・というようなお話で。
正直言って、「大人の星」のエピソードにはギョッとさせられたし、
見ながら違和感を禁じ得なかった。
第一、王子さまのあんな姿は見たくなかった。
映画を見終わったあと、「あんなの、見たくなかった」と娘に言ったら、
娘は「あの王子さまでさえ、ああいう教育されたらあんなつまらないヤツになっちゃうんだよ、
ってことを、映画を作った人は一番言いたかったんじゃないの?
だから、あそこは絶対に必要だったんだと思うよ」と言った。
「なるほど・・・」と、母、納得。

うーん、教育って大事。
子どもを育てる上で、「目に見えない大切なもの」を親がどう考えるかがとても大事だと思う。
偏差値とか、試合の戦績だとかの「数字」だけを重視して、
もっといい学校、もっといい順位、という具合に子どもを育てることは、
「大人の星」の教育方法に他ならない。
そうやってお金を沢山儲けたりする大人になることが、
イコール幸福であるかどうか、わたしたち大人には立ち止まってきちんと考える義務がある。

しかし、現実問題として、現代社会は立ち止まることを是としない社会なのですねえ。
わたしがつい最近買って夢中になって読んでいる本「哲学な日々」(野矢茂樹著 講談社刊)に、
「立ち止まる脚力」というエッセイが載っている。
一部を引用すると、
>人はしばしば、いや個人よりも会社や国のほうがそうだろう、
>立ち止まって問い直す余裕を失うほど前のめりになる。(「哲学な日々 23ページより)
野矢先生は、そんな現代社会の中でこそ、考え問い直すという哲学の姿勢は大切である、と説き、
(立ち止まらず、振り返らず、走り続けるということよりも)
「ぐっと足を踏ん張って立つというのも、相当に脚力がいること」である、と結んでおられる。
でも、哲学の姿勢が身についてない、わたしのようなごく普通の日本人は、
大抵、「立ち止まらず、振り返らず、走り続ける」ことこそが大事だと考え、
子供たちにもそうするよう強要し続けてしまっているのではないか、
この映画に出てくる母親と程度の差こそあれ。

原作で王子さまは毒ヘビに噛まれ、「死」という形を取って自分の星へと帰って行く。
(抜け殻になった身体が翌朝には消えていた、ということから、
所謂「死」とは違うものであることは分かるものの)
王子さまを失った操縦士は悲しみに暮れそうになるが、
夜空の無数の星々の中のどれかに今も王子さまが住み、
思い出の中と同じように笑って過ごしているのだ、という思いに支えられていく。
操縦士にとって夜空の星が王子さまになったのだ。
ただの小さな光点ではなくて。
そんな風に物事が考えられること、そのことが、いかに人生を豊かにすることか、
それに「大人」は決して気付くことはないだろう、とサン・テグジュペリは作品を結ぶ。
映画の終わり、病のために老人は亡くなり(暗にほのめかされるだけだが)、
母親と少女は並んで星空を眺める。
忙しさのあまり、立ち止まる余裕を失っていた母親もまた、
大切なものに気付いたのだ、ということをわたしたちに示しながら、映画は終わる。

この映画を、今、このタイミングで見られて本当に良かった。
「一億総活躍社会」「女性が輝く社会」、耳に心地よい言葉だけれど、
その実際は日本の社会の老若男女の全てを「大人の星」に組み込むってことじゃないの?
誰も子どもを育てる人がいなくなるから、そうしたら、生まれてすぐから保育園で、
効率重視で教育して、正しい「大人の星」の住人になれるようにする、ってことじゃないの?

昨日、一昨日と、Eテレで放送されたドナルド・キーンさんの番組を見た。
キーンさんは、日本人が何か大切なものを永遠に無くしてしまう、
その瀬戸際にいることを強く危惧しておられるように感じた。
それは、キーンさんが愛した日本という国が、
完全に「大人の星」と化してしまうことへの危惧ではないのか。
四季折々の風物に深く心を動かされ、はかなくうつろうものを愛し、
人と人との関係を丁寧に作って来たはずの日本人が、
そう言ったものを「無価値」とみなし、本当に大切なものをむざむざと投げ捨ててしまおうとしている、
それが、日本人より深く日本文化を理解し愛しているキーンさんには、
無念でならないのではないだろうか。

・・・ダメ、言いたいことがありすぎて、散漫極まりない文章になってしまった。
とにかく、現在子どもを育てている現役(もうギリギリ現役って感じだけど)の母親であるわたしは、
この映画を今見ることが出来てよかった!と心から思った。
この訳の分からない文章を読んで、少しでも共感してくださった方、
どうもあまり興行成績がよくないみたいなので、是非映画館で作品をご覧になってくださいな。