まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

いつかイランに行ってみたくなりました~上橋菜穂子著「明日は、いずこの空の下」を読んだ~

息子が今年のわたしの誕生日にプレゼントしてくれたこの本。
長らく「積ん読」になっていましたが、読み始めたら面白くて面白くて、
寝る時間になっても読むのが止められないほどでした。

守り人シリーズ」「獣の奏者シリーズ」という、
日本のファンタジー史上に燦然と輝く名作を生み出し、
まどみちおさんに次ぐたった二人目の国際アンデルセン賞の受賞者にして
(作家賞部門では二人目。画家賞部門では赤羽末吉、安野光雅のお二人が受賞)、
現役の文化人類学者でもある上橋さんの最新刊である本作は、
ご自身が経験なさった旅を中心としたエッセイです。
しかし、そこはフィールドワークを重ねた文化人類学者でもある著者のこと、
ただの紀行文ではなく、そこここに学者ならではの鋭い視点が感じられる作品ともなっていますが、
そこに、上橋さんや一緒に旅を楽しまれているお母さまのお人柄から来る
ユーモアと子供のような好奇心とが、
絶妙なスパイスとなって軽やかな味わいを醸し出しています。

戦前和歌山県からオーストラリアに移住した日本男性が、
アボリジニの女性と結婚し「パール・ダイバー」として暮らしながら、
異国の地で日本の文化を守り、それを息子へと手渡した話「ミスター・ショザキ」、
日本で経験した異常気象の際の匂いや、ヨーロッパ旅行で体験した鷹の身体の軽さ、
中世の騎士の鎖帷子や鎧の意外な軽さなどから、
五感で実際に感じることの大切さを痛感した話「触って、嗅いで、驚いて」、
ハンガリーの伝統的なクリスマスのご馳走だった鯉に名前をうっかり付けてしまったがために、
せっかく買った鯉を川に放してやらなければならなくなってしまう話「名づけてはいけません」、
異文明が接触する場所で起こるのが「衝突」ではなく「触れ合い」であって欲しい、
ということをただの理想論ではなくサトクリフの児童文学を引きつつ力強く語る「フロンティアの光」など、
収められている21のエッセイすべてが本当に魅力的です。

しかし、わたしの心に一番残ったのは、
お母さまと旅したイランのことを書いた「世界の半分」でした。
「えっ、テロリストがうようよしている、あのイスラム教の国?」と一瞬思いますよね?
あれはイラク、そしてこちらはイラン。
「同じイスラム教の国だし、おんなじようなものじゃないか」と考えるのは大きな間違いで、
イラクとイランとは戦争も経験しています。
(この辺り、ちょっと中国と日本とを想起させるような気がしますね)
イラクはアラビア人の国であり、イランはペルシャ人の国、
二つの国は話す言葉も文化も全く違うのです。
イスラム教と聞けば「女性を軽視する」ということがすぐ思い浮かびますが、
上橋さんはイランでそのイメージをすぐ裏切られます。
公衆トイレに並べば「韓国人?」と尋ねて来て、
相手が日本人と知ると「『おしん』大好き!」とか「イランの印象はどう?」と話しかける女性たち、
驚くほど礼儀正しいのに好奇心できらきらした目をした女子中学生たちは、
上橋さんとお母さまにお菓子をすすめ、一緒に行こうと散歩に誘い、
「漢字ってどんな風に書くのか見せて頂けませんか?」と次々ノートを差し出す。
豊かな地下水を底に隠した砂漠が広がる一方で、
バラが咲く美しい公園があり、青々とした芝生の上では家族連れが楽しそうに過ごしている・・・。
上橋さんは次々と先入観を裏切られながら、好奇心に満ちた目でイランを活写します。
題名となっている「世界の半分」とは、イメージと現実とのあまりの違いに驚いた上橋さんが、
「自分は、きっと、世界の半分しか知らないままに生きているのだ」という思いを抱いたことに拠ります。

休日は一族郎党みんなで集まってゆったりと過ごし、
好奇心に満ちた子供たちの笑顔がそこここにある・・・。
こんな当たり前が、いつの間にか日本では全く当たり前でなくなってしまいました。
イランに行ったら、その当たり前を取り戻すためのヒントが見つけられるような気がします。

いつか、わたしもイランを旅してみたい・・・。
実現は難しそうですが、上橋さんの文章を読んでいたら、ひととき、
わたしもバラが咲く公園を歩き、ひんやりとした心地良い風を感じたような気持ちになりました。

スペインの田舎を思わせるような素敵な表紙の絵は、
洋画家である上橋さんのお父さまの作品だそうです。
電子書籍版もありますが、是非、紙の本でお読みになることをおすすめします。