まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

「延命治療、しますか、どうしますか?」

とうさんが亡くなってから、いつの間にか半年以上過ぎた。
 
かあさんの死後、とうさんが亡くなるまでの半年間は、
本当に宝物のような思い出がいっぱいの日々だった。
しかし、いくつか、思い出すだけで胸が締め付けられるように苦しくなる思い出もある。
 
「延命治療」に関することもその一つだ。
 
とうさんが亡くなる前日の午前中のこと。
主治医の話があると言われてねえさんと病院へ行った。
治療方針についての話だと淡い期待を抱いていたわたしたちは、
主治医の話に打ちのめされた。
とうさんの頭の中に残っていた動脈瘤から再出血し、「脳血管攣縮(レンシュク)」という状態になったこと。
それが原因になって脳全体に梗塞が広がったこと。
もう現在は「植物状態」で、回復の見込みが全くないこと。
長期で入院されると診療報酬の点数が下がるので、よそへ移ってもらいたいこと。
最初から植物状態の高齢者は特老でも断られることが多いこと。
そして、容体が急変した時のために、延命治療をするかどうか、
考えてもらいたこと。
 
「・・・延命治療と言うのは、気管に穴を開けて管を入れ、酸素を無理やり送り込んだり、
胃に穴を開けて高栄養の流動食を流し込んだりするということですか?」
そう確かめたわたしに主治医は、
「その通りです。
早急に結論を出して、看護師に伝えてから帰ってください」と言った。
 
それで、主治医の話は終わりだった。
驚くほど呆気なく素っ気ない、とうさんへの死刑宣告。
もう寝たきりの植物状態のまま、回復の可能性はない・・・。
受け入れてくれるところはない・・・。
介護保険をフル活用しながら自宅で介護するしかない・・・。
それだけ矢継ぎ早にショッキングなことを受け入れた上で、
延命治療をするかどうかまで、今日中に決めて帰れだなんて。
仕事とは言え、時に医師は残酷なことを要求するものなのだな。
 
病院の隣にあるうどん屋さんで早めの昼ご飯を食べながら、
ねえさんと相談することにした。
実は医師の話を聞いた瞬間に、わたしの心は決まっていた。
一切の延命治療を断わろう。
「そのとき」が来たら、自然に委ねようと。
 
とうさんは、昔から怖がりなひとだった。
まだまだ若かった頃から、冗談めかしてはこう言っていた。
「俺がもし病気になったとしても、病名も余命も教えないでもらいたい。
そんなことを言われたら、俺は本当に病気になってすぐ死んでしまうからな」。
それに対して、かあさんは、
「あら、わたしは知らされないなんていやだわ。
自分が何の病気でいつまで生きられるのか知った上で、
やり残したことなんかをきちんと片付けてから死にたいもの。」と言い、
とうさんのいないところで「男って、ホントに弱虫ね。」と言ってたっけ。
 
実際はその反対になった。
かあさんはまだ元気なうちから死や老いへの恐怖に怯えて暮らし、
最期は認知症でぼんやりとしたまま亡くなった。
対してとうさんは、最後まで頭脳明晰なまま、かあさんを喪った心の痛みと闘い、
衰えてゆく身体の痛みや死への不安ともずっと闘い続けた。
あんなに怖がりだったはずのとうさんが、
弱音を吐くことはあったけど、逃げもせず、正面から病気や死や孤独と向き合って、
精一杯の闘いを続けた半年間。
もう、とうさんは、刀折れ、矢尽き果てた状態になるまで、
力を振り絞って闘って倒れたのだった。
 
わたしは、そのほとんど一部始終を目撃した唯一の家族だった。
だから、「もういいよ、とうさん。
よく頑張ったね。本当にお疲れさま。
これ以上とうさんを引き留めておいたら、可哀想だよね。」という気持ちでいっぱいだったのだ。
珍しくねえさんも反対しなかった。
 
「延命治療はお断りします。
いざと言うときは、自然に任せてください」
そう看護師さんに伝えたのが、亡くなる前日の午後1時半過ぎのこと。
そのあと、ねえさんは仕事だからと帰り、わたしは一人残って午後5時からの面会時間を待った。
 
待っている間に携帯が鳴った。
メールで延命措置を断わったことを知らせておいた息子からだった。
「・・・大丈夫?
随分辛い決断をしたんだね、お母さん。」
優しい声を聞いた途端、わたしは病院の玄関前のベンチで、
声を上げてわあわあと泣いてしまったのだった・・・。
 
*この日午後5時からの面会の様子が、こちらhttp://blogs.yahoo.co.jp/joy_spring2010/10421889.html
記事にあります。併せてお読みくだされば幸いです。)