まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

お葬式で感じたこと

伯母が亡くなってから1週間が経とうとしている。
 
友人も知り合いも殆どなく、親戚との付き合いも薄いわたしにとって、
通夜、葬儀、出棺、告別式といったものに出席するのは2度目のことだった。
前回はまだ母親にもなっていない頃のことで、
亡くなった祖父のことも「死んでいる!」としか思えず、ひたすらに恐ろしかった。
しかし、わたしもその頃に比べるとぐっと死に近くなったためか、
今回は亡くなった伯母の顔もまともに見ることが出来た。
小太りなひとだったのがすっかりやせてしまっていたけれど、
きれいにお化粧を施された伯母は気持ち良さそうに眠っているように見えた。
たくさんのお花に埋もれるようにして、大好きだったシューベルトのセレナーデの楽譜や、
お気に入りの本などと一緒に棺に横たわっていた伯母。
それが火葬場に入ってほんの1時間半ほどの後には、骨になって出てきた。
86歳で亡くなった伯母の骨はまるで海綿のようにスカスカだった。
火葬場の人が(多分)磁石でお骨の中をザラザラとさらうと、
伯母の身体に入っていた釘やらボルトやらがくっついてきた。
皆でお骨をちょっと拾って、あとは火葬場の人と葬儀社の人がお箸でさらって骨壷に納めた。
それでおしまい。
 
諸行無常、という言葉が脳裏に浮かんだ。
どんなに美しい人も、どんなに賢い人も、行き着く先は皆同じ。
終着点には「死」が待っている。
普段は恐ろしいから目を背けてしまっているけれど、それが生きとし生けるもの全てのさだめなのだ。
 
「死にざまは、すなわち生きざま。よりよく死ぬこととは、すなわちよりよく生きること。
わたしたちにとって死は必定。
死ぬさだめのものとして、死を覚悟しつつ生きなければなりません。」
法事での坊さんの法話
死を思え、とはこういうことだったのかと思った。
 
何年かの後、わたしも棺に入るのだろう。
しわくちゃになってるかもしれないし、意外に若いかもしれない。
何にしても、わたしを知る人たちに微笑みと共に思い出してもらえるようなひとになれるように生きたい。
そんなことを考えさせられたお葬式だった。