まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

新しい春が来ます

数年間続けて来た仕事を、来月で辞めることになりました。

ボランティア仲間の紹介で就いたNPOの仕事。
「支援と自立」「支援漬け」「支援慣れ」「イベント参加者の固定化」
「対象者が抱える問題の複雑化・個別化」「個人情報の壁」などの難問に直面し、
どれだけ途方に暮れてしまいそうになったことか分かりません。
それは、長年専業主婦だったわたしには、荷が重すぎる仕事でした。
単年度契約の仕事だったため、毎年この時期になると
「来年度から辞めさせてくださいって言おう!」と思っていましたが、
たった2人だけで働いている上司(ボランティア仲間のママ友)に
迷惑がかかるのでは…と思ったのと、
何より「栗ちゃんなら」と見込んで仕事を紹介してくれた、
ボランティア仲間の顔を潰さないように…との思いで、
何とか今まで続けて来ました。

結婚後ほぼ働いていなかったわたしは、
50歳を過ぎて初めて「オトナの世界」を知ることになりました。
そこは、どう考えても歪んだ価値観が支配する世界でした。
パワハラを権力でもみ消す人がいて、そんな人にすり寄り、
権力のおこぼれにあずかろうとする人たちがいる。
その一方で「そんなのはおかしい」と言った人たちが粛清されていく。
だから大抵の人は自分の身を守るため、良心のささやきに耳を塞ぎ、
「無表情な機械」のようにただただ日々の仕事をこなすだけになって行くのだと、
いくつかの事例から学びました。

このブログは、意外なことに比較的若いひとたちにも読まれているらしく…。
ですから、若いひとたちに申し上げたいのです。
上でお話したようなことが社会の現実だからと言って、
無表情な機械になって行ってはいけない。
それは、「人間のAI化」にほかならず、簡単にAIに取って代わられる世界を
自らつくり出すことになってしまうからです。
一体何が人間を人間たらしめているのかを、よくよく考えて欲しい。
困難に立ち向かったり、失敗した人を慰めたり、遅れて歩く人のペースに合わせて進んだり、
絶望の底にわずかに残る希望に生きる意味を見出したり、
希望を頼りに暗闇の中を歩いて行ったり…。
そういったことは、決して無表情な機械に出来ることではありません。
そのことを忘れずにいて欲しいと思います。

担当していた仕事に区切りが付き(「受託していた行政からの委託事業が終了した」とも言う)、
円満退職することになりました。
「うちのNPOに残らない?」と誘われなかった訳ではないのですが、
お気持ちだけ受け取ることにしまして。
折しも、夫から「とうとう引っ越しかも知れない」と言う話が出ております。
こればかりは人事が発表にならないと分かりませんので、さて一体どうなるのやら…。
(「10年も同じ場所に住んでたので、不用品で大変なことになってる、どうしよう!」と
内心青ざめております…毎度懲りないなあ。)

いずれにせよ、4月からは新しい春が来ます。
残り1か月半ほど、お仕事頑張ります