まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

娘と「ブルックリン」を見てきました

※ネタバレあり!!!
未見の方はご注意ください。

予告編を見て、「娘と見に行きたい!」と思っていた「ブルックリン」を
一緒に見てきました!

たまたまその晩はスパゲティだったのですが、
娘はそれをフォークでクルクルしながら、
「なんかさあ、今日の映画見たら、イタリアの印象がすごく良くなったよね!」
と言っていました(←確かに!)。

アイルランドの静かな田舎町からニューヨークへ移住した主人公エイリシュが
恋に落ちた相手こそ、イタリアからの移民の息子トニー。
彼が、信じられないくらい可愛らしくて、穏やかないい人!!!
イタリア男=うるさくてスケベで手が早い(失礼!)という認識だったけれど、
この映画の時代設定が1950年代(「雨に唄えば」が封切りになってた)だからなのか、
はたまたトニーが変わり者だからなのか(わざわざアイルランド人が集まるダンスパーティーに行ってた)、
娘が言う通り、「イタリア人男性の印象」がすごーく良くなりました。
エイリシュは夜学で会計士の勉強をしてるのですが、
トニーは配管工の仕事を切り上げてでも彼女が勉強を終えて外に出て来るのを待っててくれて。
だからって、無理やりキスしたりする訳じゃなく、
ただ彼女が家へ帰る道を一緒に歩きたいだけ、それが嬉しいから待っててくれるような人。
なんだか、ものすごく可愛らしい人なのです。
(娘はぼそっと「Hみたい・・・」と言っていました。
「H」が誰のことかは、一つ前の記事「小さな恋のメロディ」をお読みください)

それにしても、アイルランド人の描き方が何だか馴染深い感じで。
みんな無口で生真面目、堅苦しくて不条理なことにも文句一つ言わず従い、
既存の上下関係なども黙ってただ受け入れる・・・。
・・・あっ、東北地方の人たちだ!!!
よく似てる!!!と思いました。
対するイタリア人の家庭はまるで関西人のよう(←こちらはあくまでもわたしが持ってるイメージ)。
賑やかでよくしゃべり、よく笑い、情に厚い・・・。
この映画、個人的に東北人と関西人に置き換えてみると何だかしっくり来ましたよ。

エイリシュをアメリカへ送り出してくれたお姉さんが病気で亡くなり、
アイルランドへ戻ったエイリシュは、トニーと結婚していることを隠したまま、
周囲にすすめられるがままに地元の名士の息子と親しく付き合います。
トニーが待ってるのに、この人と知らんぷりして結婚するつもりなの?と、
見ていてちょっとハラハラさせられました。
この映画の感想を読むと、そういうエイリシュの態度を特に男性は
「腹黒女!」などとこき下ろしているようですが・・。
アイルランドはエイリシュにとっては居心地のいいふるさと、
既存の枠にパチンとはめ込まれてしまう生き方が、
彼女にはどこか居心地よく感じられてしまうのも分かります。
でも、そこには何の希望もない・・・。
名士の奥さんになったあと、ああなって、こうなって・・・と、
ただ既存のレールをなぞるだけの人生しかそこには無いのです。
そこからはみ出す自由も、ましてや飛び出す自由も全く無い人生。
そういう生き方を妹にまでさせたくない!と
エイリシュのお姉さんは思ったからこそ、
自分が犠牲になってでも大事な妹を自由の国アメリカへ送り出したようにわたしには思われました。
エイリシュもそう感じたからこそ、アメリカへ戻って行ったのではないでしょうか。

読み書きが不自由な移民の配管工でも、社長になれる自由がある国、アメリカ。
少なくとも60年前のアメリカはそういう国だったのですね。
良く見るとこの映画にはほとんど黒人が出て来ません。
当時のアメリカはそういう問題を抱えた国でもあった訳ですが、
それはこの映画のテーマとはちょっと違う話。
「ここに5軒、家を建てるんだ」
希望に満ちたトニーが指差した先には、ロングアイランドの草原(!)が広がっていました。

この映画、とにかく色彩がとても美しいです。
美大志望の娘に、だからこそ見せたかったのに・・・。
「・・・えっ、色彩?
ごめーん、お話に夢中で、そんなとこに注意してなかった」だそうです。
あらららら。

穏やかな印象の、優しい映画ですが、女性としての生き方を
ちょっぴり考えさせられる作品でもあると思いました。