まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

日本の近未来の姿か?!~「ギヴァー 記憶を注ぐもの」~

この作品を娘と見たのは実は相当前のことでして。
レビューを書かなかったのは、
作品の完成度が良くなかった(正直言って観客は置き去りにされます)ためと、
一体何をどう記事にしたらいいのか分からず困惑したためです。

この映画にはとあるコミュニティが登場します。
モノトーンの世界で、そこは恐ろしくクリーンで秩序正しいのです。
そこには争いもなく、ひたすらに平和で穏やかな世界です。
そこでは血縁関係による家族というものは存在せず、
子供を育てるにふさわしいと判断された一組の男女と、
男女と共に暮らす男女の子供が疑似家族を作って生活しています。
子供を産むのは「子を産むに適している」と判断された女性の仕事。
選ばれた女性が産んだ子供を、育児に適正ありと判断された女性が保育所で育て、
家庭で育てるべき年齢に達したと判断されれば、
選ばれた男女と疑似家族となるのです。
子供たちはコミュニティによって教育され、
適性を見極められて、15歳(だったかうろ覚えですが)になると、
コミュニティ内で果たすべき仕事を与えられ、市民となって働きます。
人を貶めるような言葉、暴力、その他一切のもめ事の種となるようなものは
注意深く排除され、完璧な秩序と平和の中で人々は暮らしているのです。

・・・というコミュニティの中で、たった一人の選ばれたものだけが
密かに受け継いでいる仕事。
それが、「歴史」の伝承です。
(つまり、その他の人々には一切歴史というものを教えていない世界だと言うこと)
この作品の主人公は、15歳(だったかな?)でその「ギヴァー」となるべく選ばれた少年。
彼は、疑似両親にも仕事の内容を一切知らせてはならないと言われ、
今までそんなものが存在することすら知らなかった人類の歴史を学ぶことになります。
そして、彼は、一見理想的な自分の住むコミュニティが、
実は人間にとって何よりも大切な「あるもの」を奪われた社会であったことに
気付いてしまうのです・・・。

・・・と言うようなお話。
この映画にはもちろん原作があります。
ロイス・ローリー著「ザ・ギヴァー 記憶を注ぐもの」(新評論社刊)という作品は、
1993年度のニューベリー賞(その年のアメリカ国内の児童文学の最優秀作品に贈られる賞)を
受賞したそうなのですが、
アメリカで小中高の課題図書となっている一方で、
その衝撃的な内容ゆえ、有害図書リストにも入っているという作品だそうです。

核家族すら内部から崩壊しつつある日本社会。
人々はこういう社会を望んでいるのだろうか?と、
この映画を見終わってから大分経つというのに、
内容が心にとげのように刺さったままになっています。

作品の完成度は今一つですが、
様々な立場の幅広い年代の方々に是非見ていただきたい作品だと思い、
レビューすることにしました。
どうぞ一度ご覧になってみてください。
そして、お感じになったことなどをお知らせいただければ嬉しいです。