まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

あんパン

昨日、義父は12時からCTの撮影でした。
施設の昼食は11:45からなので、昼食は病院から戻ったあと。
多分13時は過ぎてからになりそうでした。
それまでの小腹ふさぎのためにあんパンを用意して、
通院前に施設で食べさせて欲しいとケアマネさんに言われました。

用意して行ったあんパンを義父は無言のままバクバクと食べました。
その様子を見ているうち、
同じく通院日に老人ホームであんパンを食べさせた、
もうひとりの父のことを思い出しました。

それは、父にとって最後の外出となったペインクリニックの通院日のことでした。
ホームの昼ごはんをキャンセルしたのは良かったのですが、
父を迎えに行かなければならない時間が早すぎて、
「S-PAL」(仙台にあるステーションデパートみたいなもの)がまだ開店前だったのです。
父のためにS-PALでおこわ弁当を買うつもりだったのが叶わず、
仕方なく駅の1階にあるパン屋さんでパンを買って行きました。

神経ブロック注射を受けて腰の痛みも和らぎ、
父はいつもにもましてご機嫌でした。
父のために買って行ったパンを「ほう、これは旨いパンだ」とニコニコしながら食べ、
「あんたの分は?」とわたしに尋ねました。
そして父は大好物のあんパンをパクっと半分に割って、
「あんたも食べさい」とくれたのです。
「美味しいね」「ああ、旨いなあ」
車椅子に座った父と向かい合ってあんパンを食べたあのひとときは、
わたしの心の大事な大事な宝物となりました。

わたしのことを「赤の他人」としか思わず、
無言であんパンをぱくついている義父を見ていて、
わたしは「どうしてこの人が長生きして、おとうはあんなにすぐに死んでしまったのか」と思いました。
義父は認知症になる前から、わたしの夫の出世にしか興味がない人でした。
夫の実家に行った時にも、「仲良く暮らしてるか」みたいなことを聞かれたことはただの一度もなく、
とにかく夫の仕事の話、同期の人と比べての役職の話、あとはお金の話。
わたしはまるで「透明人間」みたいな扱いでした。
子どもたちのことを可愛がることもなく、
嫌がることを言ったりしたりしてからかうのが唯一知っている「遊び方」でした。
「お義父さん、そういうことを言ってからかうのは止めてください」
子どもたちが小さかった頃何度そうお願いしたか分かりません。
でも、義父にとって「長男のヨメ」とは、塵芥みたいな取るに足らない存在でしたから、
わたしの言葉など、なんの意味も持ちませんでした。

面会に行くと義父の帰宅願望がひどくなるため、面会を遠慮するように言われている義母は、
それをいいことに、ますます趣味の世界に精を出しています。
週の大半は家を空けて、習い事のお師匠さんのところへ行ったり、自分が教えに行ったり。
「長男の俺には親に何かあった時面倒を見る義務があるのだ」
東京本社に残る道もあったのに(わたしはそう望んでいました)
そんな風に言って転勤希望を出した夫は、
「悪い、仕事が忙しくて時間休も取れないから」。
義父の話をちょっとすると、途端に機嫌が悪くなり、
「もういい。もう止めて」。
そして、自分の好きなゲームをして、録りためた格闘技の番組を見るだけなのです。
・・・。
わたしって、一体何なんだろ。

仕方がないのだ、わたしがするしかないのだ、と分かってはいるんです。
義父が鼻をほじくろうが、何をしようが、
「この人がこうなることを望んだ訳ではない、仕方がないのだ」
といつもは納得しているんです。

でも、昨日のあんパンはまずかった。
帰宅後、わたしは悲しくなってわあわあと泣きました。
学校から帰って来た娘に、夫や義母への不満もこぼしてしまいました。
娘にとっては大事な父であり、祖母である人たちなのに。

「あんたも大変だなあ。
身体に気をつけて、頑張らい(=頑張りなさい)」
そう言ってくれるはずの人はすでに亡く、
逃げて帰る家もとうにアパートになってしまいました。

ごめんなさい、ブログで愚痴を垂れ流すなんて最低ですね。
今日も15:30から診察があります。
義父の前では笑顔で、何とか頑張ります。