まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

「俺の頭はぶっ壊れてしまったんだあ!」

3月中旬に大学生の息子と二人で義父を精神科へ連れて行った。
義父は長時間病院で待つことが出来ないため、
一旦病院で受付を済ませ、頃合いを見計らってホームから連れ出す形を取った。
ほんの20分くらい待っただけで順番が来た。
昨年6月来義父の主治医となっているK先生は自分の顔を指差し、
「わたしに見覚えありますか?」と言った。
義父は「はあ~」と言いながら首をひねり、「ごめんなさい、ちょっと分からない」。
K先生は「じゃあ、N先生はどうですか?覚えてますか?」と、
内科医(義父の認知症を疑って最初に連れて行った病院の医師)の名を挙げたが、
義父は「いやあ、誰のことだかさっぱり・・・」と首をひねるばかりだった。
K先生は「いいですよ、気にしなくて。ところで、学校の先生をなさってたんですよね?」
と話題を変え、「どこの学校にお勤めだったんでしたっけ?」と尋ねた。
すると、義父は困った様子でしばらくもじもじしていたが、隣に座っていたわたしの息子に向かって
「T市立中(なか)中学校だっけか?中中(なかちゅう)だったよな?」と言った。
助けを求めるようにわたしを見る息子にアイコンタクトで「うん、とうなずいて」と合図すると、
息子が「おじいちゃん、確かそうだったよ」と言いながら大きくうなずいたので、
義父は安堵したように「そうだ、中中だった」と笑顔になった。
わたしはそれを痛ましいような気持ちで見ながらK医師に小声で
「高校の教諭でした。中学で教えたことはありません」とささやいた。
「そうですか、中中ですか。」と義父に大きな声で答えてから医師は
「認知機能がだいぶ衰えています。進みましたね。だいぶ進み方が早いタイプのようだ」と
まるで独り言のように言い、
「薬は今までと同じ処方でまた2か月分出しておきます。
今度は5月中旬に来てください」と義父に向かって大声で言った。
(帰宅後T市出身の夫に確かめたところ、中中学校という学校はないはず、ということだった。
もしかすると戦前はあったのかも知れない)。

その日の義父は、1月の通院の時ほど活性化した様子ではなかったものの、
わたしのことは「息子の嫁」、息子のことは「東京で暮らしている孫」と
ちゃんと認識していた。
付き添いしなかった義母のことについては、
病院から老人ホームへ向かう車の中で突如として
「あっ、ばあちゃんが居なくなった!
病院に置いて来たんではないか?」と言い出したのだが、
かねてから家族間で申し合わせしてあった通り、
「エミコさん(仮名。夫の妹のこと)のダンナさんが海外勤務になったので、
お義母さんはエミコさんのところへずっと手伝いしに行ってます」と話して聞かせた。
すると義父が「そうかあ、ばあちゃんはエミコのところかあ。
じゃあ、家へ今俺が帰ってもだあれも居ないってことか・・・」と言ったのをとらえて、
わたしは「そうですよ、お義父さん。
お義母さんが言ってました、わたしはエミコのところで子供の面倒見たりして頑張るから、
じいちゃんは病院で(義父は老人ホームを病院だと認識している)もうちょっと頑張って、
お見舞いには行けないけど応援してるからね、って。
だからお義父さん、病気がよくなるように病院の方の言うことを聞いて頑張りましょうね」と言った。
(死んでから閻魔大王に舌をベロンベロン抜かれるに違いない!)。
それを受けて「そうか・・・そういうことなら仕方ねえな・・・俺も頑張るか」と答えた義父の言葉に、
さすがのわたしも罪悪感を覚えずにはいられなかったのである。

・・・と、これが3月の通院の時の話。
先日ホームの方から連絡があり、
「通院するとその後1か月くらい不穏が続いてしまうんですが・・・」ということだった。
捺印しなければならない書類もあったので、老人ホームへ出向いた。
担当職員さんの話では、義父は職員さんたちに対して暴言を吐いたり、
「3階のベランダから飛び降りて家へ帰る!俺はこの監獄に閉じ込められてるんだ!」
などと言ったりしているそうで・・・。
職員さんたちも対応に苦慮している様子が見えたので、
わたしはかねてから夫と相談していたことを提案してみた。
それは、わたしが時々義父に面会しに行ってみるということ。
夫や義母が面会に行けばすぐ「家に連れて帰れ」と言われるだろうけれど、
元々義父に何とも思われてなかった「長男の嫁さん」であるわたしなら、
義父にとってはどうでもいい人物でありながら一応顔見知り、という気楽な立場を使って、
「家族はあなたを見捨てた訳じゃないですよ、ちゃんと考えてますよ」ということを、
本人にも伝わる形で分からせることができるんじゃないか、
そうしてそうやって安心させることが出来れば、長く続く不穏が少しでもマシになるんじゃないか、
と考えたという訳だ。
職員さんは「吉と出るか凶と出るかは、とにかくやってみなければ分かりませんから」と言い、
「じゃあ、早速今日お義父さんに会って行きますか?」
そんな訳でわたしは1か月ぶりに義父に会うことにしたのだった。
ホームへ行った時間、ちょうど軽体操が行われていて、同じフロアの入居者さんたちは、
みんな食堂に集まってゴムバンドを使った運動をしていた。
しかし、義父の姿はその中になかった。
ノックして職員さんが義父の居室に入ると、義父はちょうどトイレから出てきたところだった。
ズボンの前のファスナーも開けたまま、シャツの裾もだらんと出しっぱなしで。
「コウセイさん(仮名。義父のこと)、お客さんですよ」職員さんがわたしを指しながら言うと、
義父はわたしをちらっと見ただけで視線を床に落としてしまった。
「あっ、今日はわたしが誰なのか全然分からないんだな」と思ったが、職員さんは
「コウセイさん、この人、誰ですか?」と尋ねた。
義父はズボンのファスナーをノロノロと上げ、ぎこちない手つきでシャツを押し込もうとするだけで、
視線を床に落としたまま無言だった。
「コウセイさん、この人は誰ですか?」職員さんがなおも尋ねると、
義父はまたちらっとわたしを見て「さあ・・・誰だか・・・分かんねえ」と小声で言った。
「誰かのお嫁さんですけど、誰のお嫁さんか分かりますか?」
「さあ・・・工務店の誰かの嫁さんだっけかなあ・・・」
「コウセイさん、息子さんのお嫁さんですよ、この人は」
「息子?息子って・・・?」
もう聞いていられない、と思ったので、わたしは「アキノブ(仮名。わたしの夫のこと)の嫁です」
と言ってニコッと笑ってみせた。
すると、義父は突然「ダメだ・・・俺の頭はぶっ壊れてしまったんだあ!」と大声で言い、
「ぶっ壊れた・・・ぶっ壊れた・・・ぶっ壊れてしまった・・・もうダメだ・・・ダメなんだ・・・」
と、自分の頭をこぶしでグリグリしながら繰り返した。
その時の義父の顔と言ったら!
「この人、泣き出してしまうんじゃないか?」と思うような、不安と絶望が入り混じった表情だった。
少しでも不安を和らげたいと思い、わたしは「大丈夫ですよ、お義父さん、大丈夫です」と笑顔で言った。
「忘れることなんか、誰にでもありますよ。
全然気にする必要ありません。思い出せなくてガッカリなさったんですね?
でも、気にする必要は全くないです、大丈夫ですからね」
職員さんも「そうですよ、コウセイさん、大丈夫ですから。そんなことしたら頭痛くなりますから、
もう止めましょうね」と言い、義父を上手く誘導して食堂へ連れ出してくださった。
「さあ、コウセイさん、ここがお席です。皆さんと一緒に体操しましょうね」
「そうか・・・体操するのか・・・」意外なほどおとなしく義父が席に着いたので、
わたしは職員さんに目で挨拶して退出した。

その後、義父は大荒れで何日間も大変だったそうだ。
教師をしていたためなのだろうか、義父は非常にプライドが高い人物なのだが、
多分わたしのことを誰なのか思い出せなかったという事実が、
義父のプライドをひどく傷つけたのだろうと思う。
「放って置かれる」と言っては荒れ、「面会に来たのが誰なのか思い出せなかった」と言っては荒れる。
若い男性の職員さんに教師風をビュービュー吹かせて威張り散らし、
若い女性の職員さんのことは「女性だから」と下に見て言うことを聞かない。
これでは、困った認知症老人の典型ではないか。
話を聞いた夫は「元気な時はDV親父、ボケたらボケたで困ったヤツのまま。
手の施しようがないな、全く」と怖い顔をしていた。

でも、多分・・・。
どうしたらいいか分からず一番途方に暮れているのは、
義父自身なのだろうと思う。
「どうにかしてやりたい」とは思えど、打つ手が見つからず困っているわたしなのだった。