まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

わたしのADHDその2 ~大人になってから~

「その1」に続いてちょっと辛い話が続きそうです。
ADHDについて明るい話だけを知りたい、という方は「その2」を飛ばして、
「その3」だけをお読みになることをお勧めします。
また、繰り返しになりますが、これはあくまでも「栗ようかん個人のADHD」について記したもので、
一般論として考えないで頂きたいことを強くお願いしたいと思います。
 
さて、成長したわたしですが、残念ながら社会の落伍者コースをたどることとなりました。
 
その大きな原因となったのは「衝動を抑えられない」ことでした。
いくつか例を挙げてみます。
 
・高校の教師に向かって・・・事件
高校1年の3学期に、クラス担任のS先生が
「来年度わたしの受け持ちクラスになりたくない者は挙手するように」と言った。
S先生のあからさまなえこひいきなどに日頃から憤っていたわたしは、
躊躇なく挙手した。
すると、「お前は選択教科の関係で、どうしてもわたしのクラスになるんだよ」と言われ、
実際2年生になってもS先生のクラスだった。
当然、S先生には(遅刻が多いことで目を付けられていたのに加えて)ますますマークされることとなった。
幸いS先生の担当教科であった古文の成績が良かったので授業中は事なきを得ていたが、
ホームルームの時間は嫌味を言われどおしで、クラスの女子からもいじめを受けることになった。
3年生になって国立大受験を決めたあと、廊下ですれ違うたびに、
「まだ志望を変えないのか?お前なんか受かる訳がない。
うちの学校の実績が下がって迷惑だから、すぐに志望校を変えろ」と言われ続けた。
 
・教育実習先の学校で・・・事件
S先生の嫌味攻撃にも関わらず、何とか志望校に合格したわたしは、
4年次に教育時実習へ行くことになった。
2週間の実習期間が終了し、反省会を実習生と担当教師が集まってしていたときのこと。
一生懸命頑張っていた実習仲間の一人を、担当教師が激しい言葉で攻撃し、
最後には全人格を否定するような発言をした。
わたしは我慢しきれなくなり、「先生は、実習生が教育の世界へ進む意欲を削ぎたいと思っているんですか?
担当教師に期待されている役割は、その反対のものかと思っていたのですが?」
と言ってしまった。
反省会が終わっての帰り道、攻撃されていた実習生本人から、
「どうしてあそこで我慢出来なかったの?あともうちょっと辛抱すれば終わったのに・・・」と言われた。
教育実習の成績は単位取得可能な評価の最低ランクである「C」評価だった。
(4年間の成績で唯一取った「C」だった)
 
・バイト先で・・・事件
わたしは、全国展開している某洋菓子店で(不二家ではありません。念のため。)
学生時代アルバイトを始めた。
しかし、働き始めてすぐ、その店のやり方を「汚い商売方法」だと感じるようになった。
例えば、生クリームを使ったケーキを作ってから2~4日は廃棄せず販売し(「お姉さんケーキ」と呼んだ)、
お客さんから「この間のケーキ、クリームが少し酸っぱいように感じた」とクレームが来ても、
「当店のケーキは最高級の材料を使っております。
お客様によってはそのようにお感じになる方もいらっしゃいますが、
出来たての最高の状態でお出ししてますので、安心してお召し上がりくださいませ」と答えさせられた。
正月の福袋の中身はバウムクーヘンのボロボロに崩れたもので、
しかも、作ったのは12月上旬。
それを、全く中身が見えないようにした上で、
「定価〇〇円のバームクーヘンが半額!」と言ってお客に売りつけさせられた。
「申し訳ありませんが、こちらのお店のやり方にとても付いていけません。
こんなお客をだます片棒はこれ以上かつげません。」と言って辞めたが、
その時に「お前みたいな考え方の人間は、社会で上手くやって行けない。
うちを辞めたって、お前みたいなヤツ、どこでもまともに働けない」と言われた。
(そして、その呪いのような予言は、ほぼ的中することとなった)
 
上記のような「衝動性」も原因となって、
学生時代には4年間で15以上のアルバイトを転々とすることとなりました。
家庭環境が一層悪化したこともあり(父が浮気をしたため、母は父にぶつけられない気持ちを、
全てわたしへの八つ当たりと愚痴で発散していましたし、
姉は姉で当時付き合い始めていた後の義兄との関係がなかなか上手く行かないことへの不満を、
わたしへの暴言や暴力で発散していました)、
わたしは人間不信と自己嫌悪と劣等感とでいっぱいの、
陰鬱そうな顔をしてうつむいて歩く女性になっていきました。
大学卒業後就いた小学校講師の仕事もうまく行かず24歳で結婚。
29歳で長男、33歳で長女を出産し、37歳のときうつ病を発病。
最初の5年半はどんどん増えていく抗うつ剤向精神薬などの副作用で、
何も考えられず、ぼんやりとしたまま機械的に毎日を過ごすだけになっていました。
今の町に越して来て、「薬が病気を治す訳ではない」という方針のドクターに出会い、減薬。
離脱症状(「禁断症状」と言ったほうがお馴染みでしょうか)に散々苦しみながら、
徐々に薬を減らして行き、ようやく完全な断薬に成功してからもうすぐ1年になります。
 
断薬に至る道のりは、今までの人生を振り返り、様々な出来事を見つめ直し、分析し、
考察し、自分自身を再構築するための道のりでもありました。
その途中で、わたしの話に耳を傾け、助言したり慰めたりしてくれた夫や長男、
叱咤激励してくれた長女、そしてわたしやわたしの子供たちのことを、
自身が亡くなるまでの半年間にたくさん褒めて認めてくれた父の存在などがあって、
現在の安定したわたしがあります。
(あくまでも、以前と比べて安定している、という意味ですが)
 
とりとめのない長文に最後までお付き合いくださってありがとうございました。
「その3」では、わたしが考えるADHDの特徴や対処法などについて記事にするつもりです。
もう少し駄文に付き合ってもいいかな?という寛大な方は、
是非そちらもお読みください。