まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

結婚記念日に、今までのことを振り返る~その1~

 
 
祝結婚記念日
 
あれから、23年も経ちました。
「おめでと。今日、結婚記念日でしょ?」
朝ご飯を食べながら娘に言われました。
「そうそう、そうなのよ。
23年前は可愛いおねえさんだったお母さんも、
今ではすっかりふてぶてしいおばさんに・・・てへっ」とおどけてみせたら、
娘は「その『てへっ』だけ可愛いよ、今でも」と、
褒めたんだかどうだかよくわからないリアクションをしました。
 
23年前の今日は、ひと言「雪」という天気予報でした。
生まれ育った仙台を離れるのが悲しくて、
早朝一人電車に揺られて嫁ぎ先へ向かいながら、
わたしはポロポロと涙をこぼしてばかりおりました。
(両親は後から行くからと、わたしがまず一人で向かいました)
仙台を出る時は真っ青に晴れていた空が、
嫁ぎ先へ近づくにつれてだんだん色を失い、
どんよりと曇って行ったことを思い出します。
着いた先は、小さな寂しい町で、
馴染みのない訛りで話す美容師さんに着付けをしてもらいながら、
新生活への期待感より不安感で、ともすると泣いてしまいそうになっておりました。
 
初めての町で新生活が始まると、
わたしは幻聴と幻覚に襲われるようになりました。
それは、全て母の姿と声でした。
慣れない家事に追われて疲れてしまい、休みたいと横になったりすると、
枕元で「やるべきこともやらないで、一体あんたは何を怠けてるわけ?」と
詰問する母の声がするのです。
夜眠ろうとしても、突然母が嫁ぎ先にやって来てアパートの中を点検し、
眉をひそめ、しかめっ面をしながら、「ああいやだ、なんて汚いんだろう。
あんたって、本当にだらしないのね」などと言うというような悪夢ばかりで、
ろくに眠ることも出来ませんでした。
実際に母がアパートに様子を見に来ることになったときなど、
1週間以上も前から幻覚・幻聴・悪夢が3点セットで昼夜問わずに襲ってきて、
本当に辛く苦しかったです。
 
そんな状態でしたから、わたしはだんだん常軌を逸して行ったのだと思います。
ちょっとしたことでも、自分の怒りや悲しみなどを抑えることが全く出来なくなり、
そういう嵐のような感情を全て夫にぶつけました。
大学の同級生だった夫は、寂しがりやでちょっと変わっている子、
程度の認識だったわたしの激変ぶりに仰天したようです。
家へ帰るのがすっかり嫌になってしまい、
職場の先輩や友人としょっちゅう深夜まで飲み歩いて、
家にいる時はゲームばかりするようになりました。
または、すさまじい口論か。
そんな状態でも、わたしは自分がおかしくなっていることにすら気付かず、
幻覚も幻聴も、ただの日常生活の一部のようにしか感じなかったのです。
今になって振り返ると、あの頃のわたしは、本当に病んでましたね。
 
そんなわたしは、夫が夜勤の日には実家へ帰っていたのです。
幻覚や幻聴に出て来るくらい内心恐怖していたはずの母が待つ実家へ。
(心理学でいうところの「共依存」ですね。)
そして、嫁ぎ先の町へ戻ろうすると過呼吸の発作を起こすようになりました。
しかし、当時は過呼吸の発作だとは分からず、
近所の内科で「一時的に血圧が低下したのだろう」と言われたのを信じていたのです。
自分が精神的にどんどん追い詰められていることも、
それが幼少の頃から母や姉に精神的虐待を受けたことに起因していることも、
全く気付かないまま、時折夫に対してブチ切れてしまう日々が続きました。
 
そんな中でも、わたしは、母になることを恐れていました。
自分が母親にされたようなことを、自分が子供にしてしまうのではないかと思っただけで、
恐ろしくて恐ろしくて、とても母親になることなんか出来ないと思っていました。
夫は、「お母さんになりたい、と思うまでずっと待つから」と言ってくれました。
事情を知らない義母からは「早く孫の顔が見たい」とずっと言われ続けましたが・・・。
結局母親になる決心が付くまでに4年以上かかって、長男を授かりました。
出産とほぼ時期を同じくして、夫が転勤。
初めての町で初めての育児、しかも、知り合いも一人もいない小さな小さな町で。
社宅の先輩奥さんに「赤ちゃん、随分泣いてばかりいるのねえ」と言われたのが引き金になって、
わたしは乳児虐待に走りそうになりました。
長男は夜泣きもひどく、夫に「仕事に差しさわりが出る」と言われたことも、
実家へ帰ったときに、母に「赤んぼの抱き方が下手、あやし方が下手、泣くのはあんたのせいよ」
と言われたこともわたしを追い詰めました。
泣いてばかりいる長男とアパートに引きこもり、
わたしは耳を塞ぎながら「もうやめて!」と叫んだり、長男をつねったりするようになりました。
さすがに「これは虐待ではないか」と気付き、次は自傷行為に走りました。
長男が泣いてばかりで止まらなくなると、
「わたしのせい、わたしのせい、わたしのせい!」と叫びながら、
柱に自分の頭を激しく打ち付けるようになったのです。
たまたまその様子を目撃した夫が仰天して実家へ連絡、
わたしはしばらく長男と実家へ帰ることになりました。
長男が泣くと、母はわたしからすぐ赤ちゃんを取り上げ、
「ほら、あたしが抱くとすぐ泣き止む。
あんたの抱き方が下手だからいけないのよ」。
お座りが出来るようになった長男が、床に頭をゴンゴンぶつけて遊べば、
「いやだ、この子。遺伝かしらね」。
実家へ帰っても気が休まることは全くなかったのです。
息子と転勤先に帰り、町の「健康相談」に電話して状況を話しました。
すると、保健師さんが家庭訪問してくれたのです。
そして、「うちの町の保健所の所長は元精神科のドクターですから、
所長に話を聞いてもらったらいいと思います」と言ってアポを取ってくださいました。
幼少期からのこと、そして、結婚後のことなどをお話すると、その所長さんは、
「そんなこと、誰でも経験してることだ。」とおっしゃったのです。
びっくりしたわたしが、「本当にそうなんですか?
世の中の方みなさんが本当に、脅されて腐ったプリンを食べたり、
実の姉に首を絞められて殺されそうになったりしてるんですか?」と尋ねると、
「別に珍しくもなんともない。あんたが甘えてんだ」と。
その言葉を聞いてわたしはハッとしたのです。
・・・世の中、自力救済なのだ。
どんなに大変でも、誰かが助けてくれる訳ではないのだ。
誰かに助けてもらおうなどと考えてたこと自体が間違いだったのだ、と。
 
直後、再び夫が転勤。
行き先は、東京でした。
実家から遠く離れた東京。
冬も晴れて太陽が照っている気候も、街のにぎやかさも何もかもが気に入りました。
わたしは、2歳になった息子を自転車に乗せて、毎日「街探検」するようになりました。
いろんな路地を通り、いろんな公園へ行き、家事も放り出して息子と毎日遊びました。
跨線橋から電車を眺め、図書館から図鑑を借りて、息子と電車の名前を覚えました。
息子を連れていたためか、いろいろな人に声をかけられました。
そういう人たちから、さまざまな人生の話を聞きました。
そうやって2年経った頃、わたしは二人目の子供を身ごもりました。
わたしは、男の子が生まれることが恐ろしかった。
長男に弟が生まれ、同性の兄弟間で姉がわたしにしたようなことが行われるかも、と
考えただけで恐ろしくて、迷った挙げ句、わたしは産婦人科の戸をたたきました。
事情を話し、「とてもわたしにはちゃんと育てる自信がありません。
かと言って、堕胎を決心するにも至りません。
一体、わたしはどうしたらいいんでしょうか?」とドクターに尋ねると、
「お母さん、心に少しでも迷いがあるのなら、お産みなさい。
子供には、育つ力があるんですよ。
その力を信じて、産んであげなさい」とそのドクターはおっしゃったのです。
中野駅にほど近い産婦人科のあのドクターに、
わたしは今でも心から感謝しています。
 
(長くなり過ぎなので、この続きはまた次の記事に。)