まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

ラストシーンのアンヌの表情をどう解釈したらいいんだろう~「クロワッサンで朝食を」を見た~

映画館のポイントをためてもらった招待券の期限が今日までだったので、
急きょ何か見ることにした。
そこで選んだのがこの作品。
以前NHKの「あさイチ」か何かで紹介されたのを見て、
ちょっと興味を引かれたのと、
ジャンヌ・モローが出てる作品だから。
 
この映画、まず邦題が全然ダメだよね。
原題は「パリのエストニア人」だもん。
「パリの〇〇人」と聞くと、真っ先に「パリのアメリカ人」が思い浮かぶ。
でも、この映画はそういうほのぼの楽しい要素は皆無だ。
冒頭で描かれるエストニアの冬は、いかにも暗くて寒くて路面はガチガチに凍結し、
物寂しくて陰鬱な感じがする。
(あれは、以前住んでた東北の某雪国の冬とそっくりだった)。
そこで暮らす中年女性、アンヌ。
認知症の年老いた母親の面倒を見ている彼女は、
痩せていて、疲れ切って、不幸そうだ。
その理由は、彼女の元夫が酒乱のDV男だったせいでもあり、
二人の子どもたちもそれを嫌ってか家に寄り付かないせいでもあり、
そして彼女の母親は面倒を見ている彼女のことをすっかり忘れてしまい、
彼女の姉のことだけしか覚えていないことから来るらしいことが分かる。
そんな彼女もかつてはフランスの歌を聴き、フランス語の勉強に精を出していたらしい。
語学力が彼女にパリでの家政婦の仕事を呼び込むことになる。
パリで彼女を待っていたのは豪奢なアパルトマンに住む老婦人フリーダを世話する仕事。
しかし、このフリーダが「境界性パーソナリティ障害」としか思えない性格で、
アンヌのことを散々に傷つけ振り回す。
しかし、アンヌは徐々にフリーダが心の底に抱えている故郷への思いや、
その孤独さなどを理解し、そこにある意味自分と共通したものを見出していく。
(フリーダもエストニア出身だったのだ。
まったくエストニアの言葉を話すこともなく、アンヌを「移民女」と蔑むが)
ちょっとずつ二人の距離は縮まったかに見えたが、
アンヌの真心からの行為をフリーダが拒絶したとき、
アンヌはついにフリーダと真っ向から対決して彼女の許を去る決意をする。
だが・・・。
 
・・・とまあ、ザックリまとめるとこんな内容の映画だったんだけどね。
この映画全体を流れる、何とも言えないひんやりとした感じは何だろう。
セーヌ川も、エッフェル塔も、メトロも、パリの何もかもが、
見るものをよそよそしく拒絶するかのように見えて来る。
(アンヌがパリを歩き回るシーン、「死刑台のエレベーター」を思わせた。
音楽がそうだったよね。
マイルス・デイビスばり・・・とはいかなかったけれど)
そして、フリーダの強烈さ!!!
もう性別も分かんなくなっちゃうような、しわがれてひび割れたようなだみ声で、
年老いて醜悪になった身体を贅沢な服やアクセサリーで飾り、
昔の愛人にすがって(態度はでかいが)生きている老女。
相手を散々振り回し、それに相手が応えてくれるかどうかでしか、
自分が愛されていることを確かめられない孤独な老女。
ジャンヌ・モローは若い頃から口角が下がっていてちょっと人相が良くなかったけど、
年を取ったら「ルパン対クローン人間」の「マモー」みたいになってしまった。
いやいや、もう強烈、としか言いようのない存在感だった。
それにしても、どうにも理解不能だなあ、と思うのは、
フリーダに傷つけられ、家政婦の職を辞し、エストニアへ帰るつもりだったアンヌが、
フリーダの元愛人の男と男女関係になってしまったこと。
アンヌも、フリーダの元愛人も、寂しい人間同士だったからなんだろうか。
考えてみると、この映画の主要な登場人物三名(アンヌ、フリーダ、フリーダの元愛人)は、
それぞれ非常に孤独な人物たちであることに気付く。
この映画全体を流れるひんやりとした感じは、
登場人物たちが全員孤独で、冷えた心を温め合う仲間もいないことから来るものなのだろう。
映画の最後、フリーダは自分の元愛人とアンヌが肉体関係を持ったことを見抜く。
しかし、それを知った上で、フリーダは戻って来たアンヌを、
愛想よくアパルトマンへ招き入れるのだ、
「ここはお前の家よ、お入りなさい」と言って。
それを見るアンヌの、凍り付いたような表情のアップで、
映画はいささか唐突な印象を与えつつ終わる。
 
あのアンヌの表情は、一体何を意味しているのだろうか。
映画館からの帰り道、ずっと考え続けてきた。
フリーダの元愛人は、フリーダに金を出してもらってカフェを持たせてもらった。
自分では「贈り物なのだから、借りはない」と言っていたが、
それは虚勢を張っているだけで、実際はフリーダに恩義を感じているのだろう。
だからこそ、わがまま放題で彼を振り回し傷つけるフリーダを見捨てることが出来ないのだ。
そして、アンヌは、と言えば、フリーダが人生でたった二人だけ愛した男の片割れを、
寝取った女になってしまったのだ。
(作品中、若かったころのフリーダが犯した罪と同じような感じだ)
この先、フリーダがどんなに無理難題を吹っ掛けようとも、
アンヌもまた、フリーダの元から離れることが出来なくなってしまった。
アンヌは、それに気付いてあんな表情を浮かべたのではないだろうか。
 
クロワッサンで朝食を」という題名と、
アンヌとフリーダが晴れやかな表情を浮かべて並んで歩くポスターとからは、
これが「世代や立場の違う二人の女性が理解し合い幸せを見つける」映画のように見える。
でも、実際は全然違うんじゃないかな?
この映画をすべて見終えたあとに、わたしの心に残ったものは、
どうにも拭うことの出来ない、ひんやりとした感覚だけだった。
 
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追記  
そういえば、パリジェンヌは朝ごはんにクロワッサンを食べない、
と聞いたことがあるなあ。
クロワッサンとカフェオレ、と思ってること自体が野暮な田舎モノの考えなんだと。
フリーダの場合は紅茶とクロワッサンだったけれどね。
そのこともフリーダ自身が本物のパリジェンヌにはなりきれていないことを
暗示しているのかもしれない。