まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

人生のしまい支度

もうすぐとうさんの四十九日だ。
それが過ぎたらやろうと思っていることがある。
 
人生のしまい支度を少しだけやろうかと。
沢山持っている本やレコード、CDを整理し、
着ない服を捨てて身軽になろうかと思っている。
机の中にギッシリ詰まっている古い手紙や、
かあさんたちにもらった旅行土産の絵葉書なども、
きちんと箱に納めて押し入れに入れてしまおう。
 
わたしのかあさんはものすごくきちんとした人だった。
いつお客さんが来ても大丈夫なくらい、
家の中はきれいに片付き、整理整頓が行き届き、
隅々まで美しく掃除されていた・・・はずだった。
しかし、かあさんが突然亡くなった後分かったことだけど、
物置付きの一戸建てである実家には、
隅から隅まで不用品がぎっしりと詰め込まれていたのだ。
筆頭はかあさんの洋服類。
なんと、タンス6棹分にぎっしり詰まっていた他に、
押し入れの隙間という隙間にかあさんの洋服が入っていた。
かあさんらしいことに、すべてきれいにクリーニングされ、たたまれてはいたが、
それでも不用品であることに変わりはなかった。
賞味期限が何年も前に切れた食品類も山のように出てきた。
ジャケットにカビが生えたレコード、ソノシートも。
いずれとうさんに聞きながら処分しなければ、と思っているうちに、
具合を悪くしたとうさんは入院し、一度も家へ帰ることなく亡くなった。
実家に遺された沢山のものを、
一体どうやって処分したらいいものか、
わたしたちは途方に暮れてしまうしかなくなってしまった。
 
まだ元気だった頃かあさんは、
「わたしが死んだ後みんなが困らないように、
いろんなものを少しずつ片づけて行かなくちゃって思ってるの。」と言っていた。
しかし現実には、晩年になるに従ってかあさんはどんどん気力を失い、
片づけはもとより、家から出ることさえも億劫になってしまっていたのだ。
まだ早い、まだ若いと思ってないで、
気力や体力があるうちに片づけ始めなければダメなのだ、
ということをかあさんの死から学んだように思う。
 
わたしはもうアラフォーじゃない。
四捨五入したら50歳、江戸時代なら立派な晩年なのだ。
オギャー、と生まれたあの日からずっとロケットを噴射しつづけてきたけれど、
いらなくなった燃料タンクやら第1段ロケットやらを、
そろそろ切り離さなければならない段階を迎えたのだろう。
これから先も数年後に第2段、さらに数年後に第3段と切り離していって、
最後はアポロチョコ型の小さな宇宙船に一人乗り、
静かにあの世に向かいたいものだと思う。