まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

日本の大学生は勉強しないって・・・。

今朝ラジオでこんなことを言っていた。
「日本の大学生は世界でも類のないくらい勉強しない。」
むべなるかな、と思った。
 
日本の子供って小さい頃から心から満足できることがないように思う。
小さい頃は下手すると親やじじばばの体のいいペット扱いで、
一方で「愛されている」という満足感が育つわけではない。
いっそ大人の顔色を伺い、「可愛い」と喜ばれることを為すばかりだ。
・・・まるで、それぞれの家庭で「子役」を演じているかのように。
もう少し大きくなれば、「社会性を身につける」という名目の下、
保育園や幼稚園に入れられる。
でも、そこを支配しているのは「ジャイアン」みたいな子たち。
声の小さな子や存在感のない子はいつも日陰に追いやられる。
遊びはどうかと言えば、「元気な子供は外でみんなと遊ばなければならない」
という強迫観念の下、集団で遊ぶことを強要される。
幼稚園によっては、下手すると体育やらお絵描きやら、もう勉強の真似事をさせられて。
「自分らしくある」ことではなく、常に「大人が考える、元気な子供でいること」を強要される。
小学校でも「元気な子供は外でみんなと一緒に遊ぶ」ことを強要され、
そこからはみ出す子供はいじめの対象になる。
また、サッカーや野球、ドッジボールで存在をアピールできない子は、
自分に「ダメなヤツ」のレッテルを貼ってしまう。
どんなに性格が悪かろうと、弱い者いじめするような卑怯者であろうと、
スポーツと勉強さえ出来ればスーパースターとして崇められ、
その枠から逸脱するものはダメなヤツ扱いされる。
中学校に入れば運動部のスーパースターが花形で、
運動が出来ずに文化部にいる子達はそれだけで一段下に見られる。
高校に入れば入った途端に「大学受験」のことばかり。
思春期特有の傷付きやすく繊細な感受性など、無用のものとされる。
ひたすら、勉強、勉強、勉強。
そして、部活、部活、部活。
「入試に出ないことなんか、学ぶ必要もない無駄な知識ばかり」
という考えに凝り固まってしまう。
 
遊びはどうかと言えば、ケータイゲームだろうが、プ○ステだろうがwi○だろうが、
みんなあんなのは「やってて良かった○文式」のドリルと同じことだ。
このページの問題をクリアできたら、次のページに進めますよ、というだけのこと。
最初からプログラムされたこと以外のことは絶対に起こらない。
予定調和の世界なのだ。
第一、わたしは心底楽しそうな顔をしてゲームしてる子供を、
いまだかつて見たためしがない。
みんな無表情な顔をして、狂ったようにボタンを押しているだけだ。
まるで、「このボタンを一定の回数以上押したらエサが出てくる」ということを学習した、
実験動物を見ているような気持ちになる。
 
だから、彼らには時間がないのだ。
親世代のことを見ていれば、社会人になってから遊ぶ時間も、好きなことをする時間も
全くないことぐらいよく分かっている。
大学に入るまで、本来の自分らしくあることも、
本来の子供らしく振舞うことも、心から楽しむことも、一切許されなかった彼ら。
そして大学3年になったら就職活動に入らなければならない彼らは、
一生分を大学最初の2年間で遊び尽くさなければ、という気持ちになるのだろう。
勉強なんかするわけがない。
中国や韓国みたいにこれからの「伸びしろ」がある国の学生たちは、
将来への期待を原動力に無理が利くのかもしれない。
高度経済成長期の日本人がそうであったように。
でも、みんなが「斜陽」だと思っている日本の学生たちは、
そういうモチベーションになるものが全くないのだ。
 
これは、教師の質がどうとか、カリキュラムがどうとか、
そういう表面的な問題ではない。
戦後67年間、表面的な繁栄に気を取られて自省の念を忘れていたことのツケである。
子供を育てるということは、次の世代に文化や価値観を手渡していくという、
国の根幹を維持していくのに必要不可欠な重要なミッションであるということを、
きれいさっぱり忘れてしまっていたことのツケでもある。
だからこそ、「自分」が大事、子供なんか持ったら「自分」の自由がなくなるし・・・
などとしれっとして言い放つような者たちが現れたのだろう。
 
今のままで、ただ大学生に対する締め付けを厳しくしたり、
小中高での詰め込み教育を復活させたりするだけでは、
対症療法にもなりはしないだろう。
「子供を育てる」ということが本来どういうことであるべきなのか、
そのことを文字通りわたしたち一人ひとりが見つめ直さなければ、
大学生たちはずっと勉強しないままだろう。
わたしはそう思う。