まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

学校以外の世界を~いじめられっ子がサバイバルするために~

わたしは中1のときと高2のとき、いじめられていた。
 
中1のときはクラスのボス的な女子に目をつけられたから。
ある日学校へ行ったらクラス中から無視されるようになっていた。
ヤンキーの親玉のバカな男子に「垢の地層」というあだ名を付けられ
(別に汚い女の子だったわけではなかったが)、
ヤンキーたちと廊下ですれ違うたびに足を引っ掛けられて転ばされたり、
例のあだ名を大声で連呼されたり。
スケッチブックの表紙をカッターでズタズタにされ、
持ち物の名前には油性ペンで濁点を付けられた。
(氏名の一文字に濁点を付けると、悲しいくらい間抜けな響きになるので。)
味方は男子3人だけだった。
 
高2のときは運動部のヤツらから目を付けられた。
わたしは学習障害があり(残念ながらこういう障害があることは大人になってから知ったが)、
数学bの分野が壊滅的に分からなかった。
それに運動が非常に苦手で、身体の動きがいかにも鈍臭かった。
家の中がゴタゴタしていた時期でもあり、
暗く陰鬱そうな顔をして、いつも学校に遅刻していたわたしは格好のいじめの標的になった。
数学の授業中当てられて立ち往生していると、
運動部のヤツらから野次が飛んだ。
体育の時間にバレーボールなどをやると、
いつもわたしのところにボールが集中した。
当然取れないし、ぶざまに引っくり返ったり顔に当たって眼鏡が吹っ飛んだりすると、
運動部のヤツらは手をたたき、野次を飛ばしながらわたしを嘲笑した。
プライドばかり高かった高校の頃のわたしにとって、
それは非常に腹が立つ、我慢がならないことだった。
怒った顔をしているわたしもまた、
嘲笑の対象になるばかりだったけど。
味方は化学部の部長をしてた、
学年でも有名な変人だけだった。
わたしは休み時間机で一人本を読んで過ごした。
・・・それもまた、「暗い」「陰気くさい」と嘲笑されてたけれど。
 
学校だけじゃない。
いじめられてた頃は家の中でも辛いことばかりだった。
姉に暴力を振るわれていたし、
後には父の女性問題で家の中は大変なことになっていた。
ストレスでおかしくなってた母には不満のはけ口にされ、
姉には暴力を振るわれ、
おまけに学校ではいじめられ・・・。
何度「もう死んでしまおう」と思ったか分からない。
でも、死なずに済んだ。
 
それは、学校以外の世界を持っていたから。
わたしは小さい頃から音楽の英才教育を受けていた。
残念ながら姉といろいろあり、高校に入るときに音楽家の道はあきらめたけれど、
それでも音楽は続けていた。
中学の頃は何度となくステージにも立っていた。
学校でどんなにいじめられ、惨めな思いをしていても、
音楽の世界では拍手してもらえる存在でいられた。
高校に入ってからはステージに立つことはなくなったけれど、
楽器を通して自分の思いを吐露することが出来た。
母がどんなに意地の悪い耳でわたしのミスを聞き漏らすまいとしていても、
音に込められたわたしの気持ちまで見抜くことはできなかった。
 
たったそれだけのことが、どんなに救いになったことか。
「音楽」という、学校(わたしの場合は家庭も)以外の居場所がなかったなら、
わたしは多分追い詰められて逃げ場を失い、
自殺してしまってたかもしれない。
 
今日の毎日新聞で、勝間和代さんが「いじめ対策」として、
法律の整備をすべき、というようなことを書いておられた。
今までのように心情に訴えるだけでは実効性がないのだと。
一理はある。
しかし、いくら法律を整備したっていじめは決してなくならない。
人間は生来「差別」が大好きな生き物だから。
わたしをいじめてたヤツらだって、
わたしを差別しいじめる仲間同士、
何とも言えない連帯感が生まれて本当に楽しそうだった。
「いじめ」は快感を生むものなのだ。
だから、どんなに規制しようとしたって、決してなくならない。
 
それでもいじめで自殺する子を無くすにはどうしたらいいか。
いじめられる側が死なずに済むようにするしかないのだ。
玉袋筋太郎さんの「男子のための生きるルール」という素晴らしい本にも、
確か同じようなことが書いてあったとおもうけど、
いじめてくるヤツらの手の届かないところに別の居場所を作ればいいのだ。
学校のヤツらの勢力範囲なんてたかが知れている。
学区の範囲か、親がすごい実力者だとしたってせいぜい市町村の中だけ。
(玉袋さんの本には確か「隣町の塾に通え」と書いてあったと思う。)
そこを出てしまえば自分のことをいじめてくるヤツらとは無縁の世界が広がっているのだ。
小学校から高校までの子供にとって学校という存在はあまりにも大きく、
そこでいじめに遭うとまるで全世界から拒絶されたような絶望感に陥りがちだけど、
実際はごくごく小さな世界の中だけでのことなんだ、ということに気付くと、
結構心理的にとてもラクになれる気がする。
 
「いじめる側をどうにかすべきだ」という意見だってあるだろう。
確かに正論だ。
でも、今の学校の現場は「人権」という非常に厄介な問題を抱えているのだ。
いじめに関してアンケートしようとしたって、
すぐ「人権侵害だ」などというクレームが保護者から出る。
「人権」と「プライバシー保護」で教育の現場は身動きが取れなくなっている事実を、
世間の人たちはもっと知るべきだと思う。
それに、いじめによる自殺をなくせばいいのだったら、
別にいじめられる側がベクトルをすーっとずらして身を守ったっていいのでは、とも思う。
 
だから、わたしが「元いじめられっ子」として学校に望むことは、
生徒の多様性を認めてもらいたい、ということだ。
学校の外に世界を持ちたくたって現在のように部活動に全員加入することが義務付けられ、
土日もなく部の人間と過ごさなければならないような状態では不可能に近い。
放課後の過ごし方まで規定するようなことはやめてもらいたい。
休み時間本を読みたい子だって物語を書きたい子だっているのに、
「外遊びすること」が正しいとされ、
教室に残っていてはいけない、などとするのもおかしい。
(大体今の学校はスポーツ偏重が過ぎる。
運動部は常に文化部より上とされているのだって絶対におかしい。
この国の教育はスポーツバカを増産することをよしとしているのか?
科学立国を一方で謳いながら、
現状はスポーツ偏重教育がなされているという矛盾!)
 
・・・長くなってしまった。
とにかく、いじめられる側は学校以外の世界に居場所を見つけるべし。
それがサバイバルする知恵だ。