まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

「おおかみこどもの雨と雪」を読んで感じたこと

*「おおかみこどもの雨と雪」に関するネタバレが含まれています。
未読の方、特に映画の公開を楽しみになさってる方は
くれぐれも注意願います。
 
 
おおかみこどもの雨と雪」の文庫版を読んだ。
そして感じたこと。
やっぱり子どもは片手間では育てられないなあ、と。
 
物語の中で二人の子どもを抱え、母親の花は非常に苦しい生活を強いられる。
普通なら、子どもたちを保育園に預けて働きに出るところだろう。
でも、こどもたちが「おおかみこども」ということを知られるわけにはいかず、
花は夫が残してくれたわずかなお金を頼りに子どもたちに寄り添って暮らす道を選ぶ。
 
雨と雪は対照的な性格だ。
でも、花は持ち前の賢さと細やかな愛情とで、
二人の個性を生かした育て方をしていく。
そこのところが非常に見事だ。
そして、やがて二人はそれぞれの選択をし・・・というようなストーリー。
 
・・・うーん、細田守と言う人は、相当賢い人なんだなあ、と感じた。
「おおかみこども」という設定で縛ることにより、
花が子どもたちのそばにいることを上手く必然と感じさせながら、
子どもたちが個性を生かして育っていくには、
誰かそばで見守ってやる人が絶対的に必要なんだよ、ということを
実にさりげな~く伝えることに成功している、と思う。
 
男女協働参画社会。
男女同権。
バリバリのビジネス・パーソン。
そういうものに声高に「反対!」と叫ぶものではない。
でも、「誰が子どもたちを見守ってやるの?」という気持ちも常にある。
0歳児から保育園に預ければ、社会性が早く身に着くという人もいる。
・・・ちがうんじゃないかな。
ボスには絶対的に服従しないと生き残っていけない、ということを
物心ついたときから刷り込まれるだけじゃないかな。
威張ったり、暴力を振るったりする子には媚びへつらい、服従する。
悲しいけれど、そういう「社会性」を身に着けた子達ばかりになったからこそ、
いじめの問題は深刻化しているのだと思う。
 
保育園の先生方は本当に頑張っているとは思う。
しかし、保育園では声の大きい子が先生の注意を独占しがちだ。
おとなしい子、控えめな子は、どうしたってぽつねんとしてしまいがちになる。
もともと子ども10人に対して先生が一人ではどうしたって機を逸することが多くなってくる。
ほめるにせよ、叱るにせよ、
実は「間髪入れず」褒めたり叱ったりすることがとても大切なのだ。
そのためには常に注意深く見守っている大人の存在が不可欠なのだけれど・・・。
別にお母さんじゃなくたっていい。
でも、一人ひとりの個性などを理解した大人のあたたかい目が必要なのだ。
 
いじめのことが出たついでに、もう少し。
自殺に追い込まれる子たちは、
大なり小なり必ずSOSのサインを出しているはずだと思う。
大抵の子のサインはとても分かりづらく微かで、
よほど普段から子どもと注意深く接していないと受け取ることが出来ないだろう。
周りの大人たちの心が仕事のことでいっぱいだったりしたら、
受け取ることはおろか、気付くことさえ不可能では?
いじめている側の子たちだって、周りで見ている子たちだって、
自殺につながるような陰惨ないじめだったなら、
何らかのサインを出している可能性は十分にある。
そういうものを受け取るのは、
教師の役割ではなく、一緒に暮らしている家族の役目ではないだろうか。
 
仕事をして報酬を得ること。
得た報酬でマイホームやマイカーを手に入れること。
社会的地位を得ること。
それはそれで素晴らしいことだとは思う。
でも、「子どもたちを、一体誰が見守ってやるのかな?」という疑問は、
わたしの中にずっと残っているのだ。