まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

朱さんのこと

実家へ行ったとき、ひょんなことから昔台湾へ家族旅行したときの話になった。
 
父は職場の山岳会どうしの交流会がきっかけで、台湾の方々と親交があった。
そして父が交流の一環として台湾の山へ登りに行った際、
「ぜひ次は家族を連れていらっしゃい」と誘って頂いたのだ。
日本人なら社交辞令なのかもしれないけれど、
台湾の方は毎年の賀状でも、時折下さる電話でも、いつもいつも誘ってくださった。
そんなわけで、わたしが小5のとき、家族4人で台湾へ行くことになった。
今から35年前の台湾は、今の発展ぶりが嘘のような、のどかな国だった。
戦前日本が統治してたため、台湾の方々は皆さん正しくて美しい日本語を流暢に話された。
そんな中に一人、日本語が全く話せない男性がいた。
その人の名前は朱さん。
もともとは上海の出身で、蒋介石と一緒に台湾へやって来た人だった。
今はそんなこともなくなったのかもしれないけど、
台湾の人たちは大陸から来た人たちを「いい加減だ」と言って嫌っているのだ、と台湾の方は言った。
でも、朱さんはとてもいい人だから、自分たちのグループに入れて、
一緒に山登りを楽しんでいるのだと。
薬の副作用で身体中の毛が抜けてしまった朱さんは、
帽子を取ってツルツルの頭をなでながら人懐っこい笑顔で頭を下げ、「コニチワ」と不思議な日本語で挨拶した。
 
わたしたち家族は、台湾の方々と一緒に1週間ほど台湾中を旅行した。
その間、なぜかわたしは朱さんに非常に気に入られて、いつも手をつないで一緒に歩いた。
朱さんは日本語が話せず、わたしは中国語が話せなかった。
朱さんはとても不思議なイントネーションでわたしの名前を呼んだ。
わたしが朱さんの方を向くと、朱さんは人の良さそうな笑顔を浮かべながら、
身振り手振りを交えていろいろな話をしてくれた。
ほとんどは分からなかったけれど、嫌な感じは全くしなかった。
ただ、わたしのことを可愛いと思ってくれているのだなあ、とだけ感じた。
 
朱さんの話を台湾の方が訳してくれたことがある。
「わたしは蒋介石と一緒に大陸から逃げて来て以来、中国に帰ったことがありません。
わたしたち元軍人にはパスポートが出ないからです。
わたしは、今でも懐かしい家へ帰るところを想像します。
駅から家へ帰る道を歩いて、どうやったら家へ着くのか、忘れたことは一度もありません。」
いつも笑顔だった朱さんが、その話をした時にはぽろぽろと泣いていた。
わたしたちが帰る日、空港で振り返ると朱さんが小さく小さくなっても手を振ってるのが見えた。
 
そのあとわたしたちは5年後にもう一度台湾へ行き、朱さんにも会ったのだけれど、
そのときのことはまた別の記事に書こうと思う。