まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

ビリー・ホリデイのドキュメンタリー作品"Billie"をみて来ました

仕事の帰りに久しぶりに映画館へ寄り、"Billie"をみて来ました。

頑張って働いた後だったのも悪かったのか、途中でちょっと意識が遠のき…。

ビリー・ホリデイの人生を追っていた(「被害者」じゃないレディ・デイの

真の姿を明かしたかったそう)アメリカの若き女性ジャーナリストが生前集めに集めた、様々な人たちへのインタビュー音声とレディ・デイ自身のインタビュー音声、

ライブ映像、そして道半ばで「ナゾの死」を遂げたという女性ジャーナリスト自身の

音声やご存命の妹さんのインタビューなどが、まるでごった煮のように展開されます。

時系列に沿ってとか、章立てしてとか、見る側が情報を整理しやすくなるような

工夫は全くなし。

挿入されるライブ映像のレディ・デイも、若くて美しくむっちりと肥えた身体から

艶やかなねっとりヴォイスを出していたかと思えば、すぐ後に枯れ枝のように

痩せた身体からカサカサのしわがれた声を振り絞っていたり。

インタビュー音声も幼馴染、友人、ミュージシャン、ヒモなど、まあ様々な人たちの

生音声がどんどんと流され、未整理の情報の海で溺死しそうな気分に。

でも、仕事帰りでヨレヨレの私の頭でも、この作品で言いたかったことは、レディ・デイは「被害者」ではなかったのだ、彼女は「主体的に」乱れた生活をチョイスし、

彼女なりに人生を謳歌しつつ破滅に向かって転がり落ちていった人だったのだ、ということは理解できました(これだけなら、目新しい主張ではないけど)。

個人的に「えっ?!」と思ったのは、「若い女性ジャーナリストの『ナゾの死』が

カウント・ベイシーに関係している」的なニュアンスを感じたことです。

ジャーナリストの妹さんが、お姉さんの死後文字通り死蔵されていた資料を

提供する気になったのも、「お姉さんの死の真相を知って欲しい」という気持ちが

あったためであり、その「真相」というものが、レディ・デイの取材を続ける中で

ベイシー翁に近づきすぎたからだったという「仮説」みたいで(眠くて理解力がさらに落ちてたからそう誤解しただけか?)。

「被害者」はレディ・デイではなく、その取材の途中で「消された」ジャーナリストだったのだ、と言う妹さんの説を周知させたかったのかなあ。

劣化していたはずの映像がデジタル処理され、さらにカラー化された若きレディ・デイは本当に美しく、生命力が光となって身体中からあふれ出て来るかのようでした。

まあ、それが見られただけでよしとします。