まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

「罪作り」なテレビ

ほとんど民放の番組を見なくなって久しいのだけれど、
先日、夫がたまたまつけた番組を見た…そしてあまりのことに驚き、
やがてやるせない思いで一杯になった。
数日経過した現在もその思いが消えない。

それは、「あのお話の結末、どうなったか知っていますか?」
というようなクイズ形式の番組だった。
多分、いくつか同じ形式で問題が出されていたのだと思う。
わたしが目にしたのは、「赤毛のアン」が出題される時で、
問題に先立って「4分で分かる『赤毛のアン』」というVTRが放送されているところだった。
イラストのスチルを使ってあらすじを説明していたのだが、
これがわたしの「驚き」の第一の原因で。
マリラやマシュウが「これ、ちゃんと原作読んだ人が描いたの?」と
仰天するようなイラストだったのだ。
原作によれば、マリラは骨ばってゴツゴツした体形、白髪交じりでやせた、
厳しそうな表情の60代の女性で、
その兄のマシュウは長いあごひげをたくわえ、前かがみの姿勢で、柔和そうだけど、
極度のはにかみ屋のせいで他人の顔を真っすぐ見ることがないような男性のはず
(作中できちんと描写されている)。
それが、マリラは太っていて笑顔(これじゃリンドおばさんだ!)、
マシュウも正面を向いてすっくと立ち、
帽子をかぶったただの陽気そうなおじさんに描かれていた
(スタイルだけ見ると「なつぞら」の草刈正雄)。
さらに、「4分で分かる」と謳われていた内容が、その実
「4分で誤解を与える『赤毛のアン』」になっており…。
ご存知のとおり、作中アンは生後間もなく両親を亡くし、
その後幼い頃から「子守り」として、子供を沢山抱えた家で
働かなければならなかった過去を持っている女の子として描かれている。
生活に追われる奥さんにこき使われ、辛く当たられ、可愛がられることもない苦しい毎日を、
アンは想像力だけを拠り所として必死で生き抜いていた。
そんな中で生み出されたのが、「ケティ・モーリス」と言う想像上の友人。
それは、ガラス戸に映るアン自身の姿だったのだが、
彼女だけがアンの心の友として、アンの本心を聞き、
空想の世界と現実世界とをつなぐ存在として、現実に耐える力をアンに与えていたのだ。
それが、番組の中では「想像力が豊か過ぎて突拍子もないことをする子」
アンの逸話のひとつとして紹介された。
スタジオに居並ぶ解答者の中には、VTRを見た途端、
「何これ、アブナイ奴じゃん~(笑)」という反応を見せた者まで居たのだ!
それに、マシュウは「破産したことを新聞で読み、ショック死した」だって。
確かに、マシュウの最期だけを言えばそうなるかも知れない、でも、
そこに至るまでに、心臓が弱くなってもマシュウが生来の働き者で働くのを止めなかったこと、
そんなマシュウを見て「自分が(本来マシュウたちが働き手として欲しがっていた)男の子で
ありさえすれば…」と悲しむアンに、マシュウが
「お前はわしらの自慢の娘だ」という言葉を贈る場面など、
数々の省略できないエピソードが積み重ねられた末の「ショック死」だったのに…。

赤毛のアン」の結末を問う問題は、別所哲也さんが正解なさった。
「ちゃんと原作を読んでいらっしゃる方だ」とすぐ分かる解答だった。
まだ番組は続いていたけれど、そこで見るのを止めにした。
自分の大好きな物語が、軽薄で内容のないものとして扱われ、
笑いものにされるのを見せられて、たまらなく悲しい気持ちになったからだ。

赤毛のアン」を、昔みたいにみんながちゃんと読んでいるのならいい。
でも、娘が通っていた女子高(一応、地元でも有名な進学校)で英語の教材として
赤毛のアン」が使われた時、娘が「みんな読んだことないみたいで驚いた!」と
言っていたくらいだから、後は推して知るべし。
そんな世間一般のお子たちに、「4分で誤解を与え」たことは、
本当に罪作りだと思う。
わたしは、短時間で本の紹介をするのが悪いと言っている訳ではない。
NHKラジオで夜10時から放送されている「NHKジャーナル」の中で、
月に1回勝ち抜きの「ビブリオバトル」が行われているけれど、
(バトル形式と言うのが個人的には好きではないが)こちらは決して悪くない。

要は、「原作(=本)」に対する尊敬の念や愛があるかどうか、なのである。

それにしても、ああいう内容の企画でGOサインを出すなんて、
一体あの番組で何を伝えたかったのだろう。
もしかして、もうテレビ自体、毎分毎秒が
すでに「消化試合」みたいになっているのかもなあ。