まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

「人間関係の数=持っている人格の数」という説から虐待を考えてみる

柏市で小学校4年生の女の子が両親(主犯は父親だけど)に
虐待された挙句殺された事件。
仕事先では誰もが認める温厚な好人物だったという、
父親の「二面性」が話題になっているようだ。

ところで、わたしは、自分の心の中に「栗ようかん荘」があって、
そこに数十人の「栗ようかん」が住んでおり、その総体として
わたしと言う人間があるという認識で生きている。
そして、そういう考えはどうやら外れではないらしく…。

わたしが長い間お世話になっているカウンセラー曰く、
「『人間関係の数だけ人格がある』という説を唱えている学者もいる」。
それを聞いた時、なんだかとても腑に落ちた感覚があった。

わたしたちは一人で生きているわけではない。
多様な人たちと意識的に、或いは無意識のうちに影響し合って生きている。
顔色を窺わなければならない人がいる一方で、
こちらの顔色を窺って来る人もいる。
こちらの態度も相手によって大きくなったり小さくなったり、
下手に出てみたり強気になってみたり、ご機嫌を取ったり取られたり様々だ。
しかも、常に相手と一対一で、まるきり同じ環境で対峙する訳ではなく、
同じ場所にいた人たちとの関係性や周囲の環境など
可変的な要素が無限のバリエーションを持つため、
とても二つや三つの人格の使い分けで対応できるほど単純なものではないと思う。

柏市の女児虐待殺人事件に関して言えば、
父親の「家庭の外での顔」が偽りで、「家庭の中での顔」が真実、
みたいな考えは間違っているんじゃないかな。
全部が真実の顔なのだ、きっと。
2年前に亡くなった義父だって、「あんなに腰の低い穏やかな方は
生まれて初めてです」なんてわたしの知り合いが驚くほど
温厚で物静かな顔を持っていた一方、
義母に対しては半世紀にわたって暴力を振るい暴言を吐き続けていたけど、
別にどちらかがうそっこの義父で、どちらかが本物なんてことはなく、
一見激しく矛盾している正反対の人格が、何の支障もなく義父の中に存在していた。
DV男の義父も、米つきバッタの義父も、それぞれが「コーセイ荘」の住人だっただけ。
義母が呼び鈴を押すとDV男の義父がいつも応対し、
夫の知人が呼び鈴を押すといつも米つきバッタの義父が応対してたってことなのだ。

現代の「家庭」について改めて考えてみると、
そこには可変的な要素が全くないことに気付く。
いつも同じ顔触れが同じ場所に同じようにいて。
他人が介在することがほぼない閉鎖空間だ。
しかも、「個人情報保護」や「プライバシーの保護」などと言う堅固な覆いが
周囲から「家庭」を見えなくさせている、いや、見えないことにさせている。
子どもの悲鳴も、親の怒鳴り声も、堅固な覆いの外では
聞こえない、いや、聞こえないことにされる。
そういう「石棺」の中で子供に対する虐待は粛々と行われていく。
しかし、一歩「石棺」の外に出れば、それぞれがまた
何の矛盾もなく別人格になって外の人たちと関わって時を過ごす。
それが虐待を一層見えにくくする。
虐待されている子供がひと目でそう分かる訳ではなく、
友達と一緒になればただの子供として笑ったりしながら過ごし、
仕事場に行った父親は穏やかな好人物となって何の矛盾もなく働く。
「石棺」の中に留まらざるを得なかった母親が一番つらかったのかも知れない。
子どもの悲鳴が響き、鬼のような形相をした連れ合いを日々見せられる「石棺」は、
彼女にとってトラウマを日々生み続ける現場だっただろうから。
しかし、それにもいずれ人間は慣れてしまうし、
彼女自身、身を守るための知恵として、鬼におもねることを覚えてしまった。
そうして、虐待は完全に日常となって行ったのだ。

こういう事件が起こると、テレビのリポーターたちが
虐待してた父親や母親の知人の許へ殺到する。
住んでた場所の住人たちの許へも殺到する。
その人たちから「いい人だと思ったんですけどねえ」とか「信じられません」とかいう
不毛のコメントを集めて回り、それを怒涛の勢いで報道する。
かくして、毎回虐待の原因は「父親の二面性」みたいなことに収斂していく。

違う、決してそうじゃない。
誰もが心の中に数十人の「自分」を持っているんだから。
呼び鈴を押した相手、相手との関係性、その場の環境、
介在する他人の有無などによって、誰もが「未経験の自分」を
発現させてしまう可能性を持っているってことを
みんな自覚してた方がいいんじゃないかと思うんだけどなあ。