まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

「大事なことが伝わる報道」を

10歳の女の子が父親の虐待によって亡くなった殺された事件。

他社がまだ伝えていないことを…ということなのだろう、
文字通り微に入り際に渡る報道が続いている。

以前、5歳の女の子がやはり親による虐待で亡くなった時も
そうだった。
彼女が、覚えたばかりのひらがなでつづった文章を、
わたしたちは空で言えるようになるほど目にしたと思う。
確か、国会で議員もあの文章を取り上げたはずだ。

にもかかわらず、あの出来事からそう時間が経たないうちに、
また10歳の女の子が親によって殺された。

あんなに繰り返され、過熱した報道から、
わたしたちは一体何を学んだのだろう。
怒涛の勢いだった報道の波が引いたあと、
わたしたちの中に残ったものは何だっただろうか。

「報道」とは、殺された少女の人となりを
詳しく伝えるためのものではないと思う。
内容がより個人的なものになって行くほど普遍性を失い、
受け取る側がその報道から学べるものが少なくなってしまうからだ。

わたしたちは、殺された5歳の少女の哀れさに涙を流すことは出来ても、
あの凄まじい報道の波の中から
「身近にいる心配な子供が実際に虐待されているかどうかを
見分けるサイン」や「虐待を疑った場合、周囲の人たちは
どうすれば子供が救えるのか」などを
すくい取ることが出来なかったのだ。

そして、悲劇は繰り返された。
殺された少女の友達は、少女の父親に裏の顔があること、
彼が暴力を振るって来る男であることを知っていた。
近所に住んでいた人たちは、子供の泣き声や父親の怒鳴り声を
何度も聞いていた。
少女が乗っていた自転車が放置され、持ち主の姿が見えなくなったことも
何人もの住人たちが知っていた。
事件後、テレビカメラの前で沢山の人たちが証言していたが、
それは、まだあの少女が生きているうちに、
別の場所で言うべきことだったと思う。

今回の事件でも、わたしたちは報道を通して
殺された少女がどれほどしっかりした賢い子だったか、
少女を自分の手許に置こうとして脅しをかけて来た父親を前に、
教育委員会や学校関係者などの対応が不甲斐ないものであったかを
嫌というほど知ることとなった。
しかし、、またしてもそれだけになってしまいそうだ。
記者会見の際の児童相談所の職員がおかしかったとか、
脅されて屈した教育委員会の職員が悪かったとか。
そういう「個人の失態」と、「少女の父親個人の悪らつさ」に
全てを収斂させてしまおうとしているかのように、
一連の報道を見ていると感じてしまう。

それでは、あの5歳の少女の事件の二の舞ではないか。
本当に伝えて欲しいのは、そういう「個」の話ではない。
どうやったら、「SOS」を出している子供たちを、生きているうちに
助けられるか、という普遍性のある話なのだ。

どうか、「本当に大事なことが伝わる報道」を
お願いしたい。
そして、「本当に大事なこと」は繰り返し繰り返し、
わたしたちの心に刷り込まれるまで報道して欲しい。