まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

ヨガ教室で

平成もラスト1年を切った。
「平らかに成る」はずだったこの30年は、
災害やら未曾有の大事件やらで内も外もちっとも平らかではなかったなあ、
とつくづく思う。

わたしがまだ母親になる前のことだから、
もう四半世紀以上前のことになる。
わたしは、その頃住んでいた小さな町の「健康センター」で
ヨガを習うことにした。
新聞の折り込み広告に書いてあった、
「体の硬い人ほど効果が表れます」の殺し文句にやられたのだ。
先生は、「東京から来た」と言う、ものすごく美しい女性で、
赤い地に原色の模様が散った、いかにも「インド」という感じの
それはそれは華やかなサリーのようなものを着ていた。
先生はにこやかに、しかも分かりやすく初心者のわたしたちに
レッスンしてくれたので、わたしは2回目のレッスンにもウキウキと出かけた。
しかし…。
「これから後のレッスンは、わたしが担当します」
そう言って現れたのは、風変りな服
(カンフー服のような、ペラッペラの柔道着のような)を着た、女性だった。
わたしが心底驚いたのは、その先生が遠目にも分かるほど
「薄汚い感じ」だったことだった。
元は真っ白かったのかもしれないが、風変りな服は上下とも汚れが目立っていたし、
先生の短い髪はべた付いていて、レッスンの途中でそばを通った時など、
かすかに怪しい臭いが漂って来るのだった。
わたしは、あの美しく優し気な先生のレッスンでないことにがっかりしたものの、
例の殺し文句を半ば信じて通い続けることにした。

レッスンを始めるにあたり、先生はまるでお経でも唱えるような口調で
「わたしたちはいついかなる時も・・・・(途中の言葉は失念しました)
マントラを唱えます・・・・オームー…」
と不思議な言葉を言うのだったが、そのうちわたしたちにも
同じことを言うように強要するようになった。
わたしたちは何だか訳が分からなかったけれど、言われるがままに、
「わたしたちはいついかなるときも・・・・マントラを唱えます・・・・オームー…」
と唱え、見様見真似で合掌をした。
回数を重ねても、先生は決して笑ったり冗談を言ったりしなかった。
そして、いつ見ても薄汚れていて(裸足の足の裏も汚かった)、
不思議なほど何の表情も浮かばない顔をしていた。
先生は、ヨガ教師以外にも仕事を持っていた。
隣町にあるスーパーのパン屋で働いていたのだ。
さすがにパン屋さんの制服は薄汚れていなかったけれど、
わたしは最後までそこでパンを買う気になれなかった。

先生はレッスンの最後に、「ヨガ合宿」のチラシを渡すことがあった。
それは、確か、関東地方のどこかで開かれるもので、
参加費が意外なほど高かった。
「もっともっとヨガについて学べます。
わたしもいつも参加しています。
みなさんも是非参加して、ヨガについて一緒に深く学びましょう」
先生は毎回抑揚のない口調でそう言って参加者を募ったけれど、
大体が50歳代から60歳代(20代半ばの参加者はわたしだけだった)の女性で、
家庭の主婦ばかりだった生徒はみな、顔を見合わせて
「だって…遠いし…お金だって結構かかるし…何もそこまで…ねえ?」
みたいな感じで困惑するしかなかった。
先生はそれを見てもがっかりする風もなく、いつも通り無表情なまま。
確かに人間の女性なのだけれど、生物感が欠けているというか、何というか…。
強いて言えば、薄汚れたヨガサイボーグ、みたいな印象しか受けなかったのだった。
(足の指5本がまるで手の指のように、ぱあっと開く様子には驚かされたが…)

わたしは、住んでいたアパートから「健康センター」がちょっと遠かったこともあって、
1年くらい習って行くのを止めてしまった。
行かなくなってどれくらい経ってからのことか、記憶が定かではないのだが、
やがてスーパーのパン屋から先生の姿が消えた。
そのうちわたしが妊娠したことが分かり、夫の転勤とほぼ同時期に出産。
息子が生まれたのは平成7年だった。
世間が例の大事件で騒然となった年。
教団についての報道を見て、わたしは先生が信者だったことを確信した。
「ヨガ合宿」は、たぶん全国から新規の入信者を確保するために
行われていたものだったのだ。
そして、あの「東京から来た」という美しい女性は広告塔役だったのだろう。

麻原彰晃こと松本智津夫以下7名が死刑となったことが、
今日報道された。
あの先生は、今、どこで何をしているのだろうか。