まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

とどのつまり「認知症」とは

義父が旅立って1か月以上経ちました。
認知症サポーター医」のところで長谷川式スケールを受け、
20点満点中12点だったのがちょうど3年前の5月のこと。
翌6月に認知症と確定診断を受け、投薬開始。
9月下旬に暴力行為と自傷の危険性が高まったため医療保護入院
2か月の入院ののち、介護付き有料老人ホームに入ったのが11月末。
それからちょうど2年間ホームで過ごし、昨年11月末に再入院。
そして今年4月に亡くなりました。

わたしは3年前の5月から義父の通院の送迎を行い、
入院中とホーム入所中の面会も殆ど全て行っていました。
(初めて記事を読む方のために書いておくのですが、
義父と義母とは折り合いが悪く、結婚以来ずっと義父が義母に暴力を加えていました。
認知症になってからと言うもの、義母が面会に行くと
義父の「不穏」が激しくなるため、義母は病院でもホームでも
「面会をご遠慮願いたい」と言われていたのです)。
義父から見て「長男の嫁」であるわたしは、元々「塵芥」も同然の存在だったため、
あっという間に義父の記憶から存在自体が消えてしまいましたが、
そのことがかえって義父を気楽にさせ(「誰だか思い出せない」という
居心地の悪さを感じる必要性がなかったからでしょうか)、
結果わたしは家族の中で一番「認知症後の義父らしい義父」を見る機会が多くなりました。

いろいろなことがあった3年間を振り返って感じることは、
とどのつまり「認知症」とは「今ここにいる自分」という認知ができなくなるものだ、
ということです。
「できなくなる」というと否定的な言葉になってしまいますが、
別の表現をすると「時間と空間をランダムに行き来するようになった状態」とも言えます。
つまり、「認知症」とは「タイムトラベル」と「テレポーテーション」とを
心の中で行うようになった状態ではないかとわたしは感じたのです。

話の中で義父は自身が東京で過ごした学生時代に戻り、
実際は老人ホームの駐車場の工事を
「映画のロケの準備をしている」と言ったこともありましたし、
小学生に戻って「新しくできた学校のプールに泳ぎに行ったら
大混雑していて泳ぐに泳げなかった」と言っていたこともありました。
それぞれ「今ここにいる義父」から出た話としては「とんちんかん」だったけれど、
学生や小学生にタイムトラベルし、その時に住んでいた場所に
テレポーテーションした義父から出た話と考えれば
決しておかしくはなかったのです。

義父の両親や兄弟たち、同級生たちが聞けば
「ああ、なるほど」と思うような話も多かったでしょうし、
きっと昔話に花を咲かせることも出来たのでしょうが、
残念ながら両親はとうの昔に他界し、
兄弟たちとは疎遠になり、同級生たちとも親しい交わりはなかったのです。
同居したこともない「長男の嫁」は、毎回自分自身ではない誰かを演じつつ、
義父の話に耳を傾けるので精一杯でした。

これから介護する家族の方たちにアドバイスできることと言えば、
認知症になった方の話に注意深く耳を傾け続けて欲しいことと、
必ず病状などの記録を取り続けること、その二つは必ず行って欲しいということです。
「同じ話ばかりする」「聞き飽きた」そう思わずに話を聞いていると、
認知症になった方が人生においてどんなことを大切だと考え、
どんなことが印象に残ったかが見えて来ます。
それを踏まえて家族が対応することによって(義父の場合はとにかく
お金の話と社会的な地位に関する話が多かったため、
わたしは常にへりくだった態度を取るよう心がけました。
そのことで問題行動を誘発せずに済んでいる、と施設の方からも言われました)、
認知症になった方の「地雷」を踏まずに済み、
心穏やかに過ごしてもらえるようにもなると思うのです。
また、投与された薬の種類や服用回数、ちょっとした変化などを記録しておくことで、
薬の効き目だけでなく「副作用」の出現などにも気付くことができるようになります。
受診の際にもとても役立ちますので、記録は取り続けることをお勧めします。

義父が亡くなったので、「認知症」書庫の記事を更新することは
この先少なくなるだろうと思います。
夫や義母にとっては「とんでもないオヤジ」だった義父。
わたしの心には差し入れに持って行ったプリンや水ようかんを
嬉しそうに食べ、笑顔を向けてくれた姿が焼き付いているのです。