まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

「巣立つ」ということ

この春から某自治体職員となる息子と一緒に
アパート探しをして来ました。
転勤で以前住んでいたことがあるため、
母もちょっとだけ土地勘があり、安心な町。
でも、親としては何よりも
大学時代より距離的に近くなるのが嬉しかったのです。

駅近物件、コンロ二口、バストイレ別、キッチン独立・・・。
「賃貸物件の家賃は手取りの3割まで」が鉄則だと言うのに、
息子はどんどん「こだわり条件」を出しまして(汗)。
「役所から遠い辺鄙な場所にしか、
アパートを借りられないだろう」と思っていたのに、
町の中心部にほど近い場所に部屋が見つかりました。
大通りからちょっと入った場所のため、
とても静かで、便利で、「こだわり条件」も満たしつつ予算の範囲内という、
まさに願ったり叶ったりな物件でした(ちょっと古かったけど)。

帰り道、息子がいつもの穏やかな口調で言いました。
「仕事を始めたら、もう今までのように電話したり、
休みごとに家に帰ったりはしないよ」。
(えっ?)と思って息子の顔を見たわたしに息子は、
「だって、そうしなくちゃならないと思うから。
本当の意味で『独り立ち』すべき時が来たんだなあ、と思うから。
・・・ほら、トイレに貼ってあるあの詩、
あの中にあったでしょう、
『ひとりでいかなかきゃなんない/どうしてなのかわからないけど』って」。

(ああ、そうか、そうなんだなあ、仕方がないことなんだなあ)と
思いました。
「そうか、分かった。にいちゃんがそうしたいなら、分かった、
一人で頑張ってごらん。
でも、『もう死ぬしかない』ってところまで追い詰められたのに
何の連絡もしないで死んでしまったりはしないでね」。
こちらも努めて穏やかな口調で答えたものの、
その後息子が疲れからかぐっすり眠り込んでしまったあと、
ぽろぽろと泣いてしまった、わたしなのでした。

※息子が引用した、「トイレに貼ってある『詩』」とは、
谷川俊太郎さんの「さようなら」です。
その詩についてはこちらの記事をお読みください。