まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

最後のお年玉

帰省していた息子とわたしの二人は、年末から年始にかけて
インフルエンザにかかってしまい・・・。
センター試験を控えた娘がいるのに!)

そんな訳でお年始の挨拶をしに、昨日夫の実家へ出掛けた。

義父がいなくなったあとリフォームされた家は、
タバコのヤニで激しく変色していた天井や壁も真っ白になり、
見違えるようにきれいになっていた。
義母は久しぶりに会ったうちの娘に、
「あら、太ったんでない?顔がだいぶふっくらとしたね」。
思春期ど真ん中で、「ちょっぴりぽっちゃりさん」であることを何より気にしている娘にとって、
それは実に手痛い一撃だったのだが、義母自身に悪気は全く無く、
「いやいや、進学校ちゅうところは恐ろしいもんだねえ、
ばあちゃんの家にも来られんくらい、
宿題漬けの3年間になるなんてねえ」と屈託なさげに笑ったのだった。

お茶を一服いただいてから、義母も車に乗せて食事をしに行った。
いつも行く店が満員だったため初めての店へ行ったのだが、
義母はそこで「チョコレートファウンテン」を初体験して嬉しそうにしていた。

その後、義父が入院している病院へ向かった。

義父については、入院後も食事を摂らずどんどん痩せてしまい、
主治医から「胃ろうを考えるレベル」との話が先月下旬にあった。
夫が「胃ろうさせたい」と言う義母を説得したのだが上手く行かず、
「息子と意見が分かれている」と義母が主治医に伝えたのが先月28日。
「家族内で意見が一致しないうちは、処置出来ませんから」
と言われたまま迎えた新年だった。

車イスに股ベルトで固定された義父は、
持ち直したのか以前より痩せた感じではなかった。
しかし、認知症が進んだあとも保たれていた排泄の自立は崩れてしまい、
パンツタイプの紙オムツを着けるようになっていた。
「コウセイさん、お客さんですよ」
男性看護師さんに声を掛けられてもぼんやりしていた義父だったが、
義母が「よう」と声を掛けるとうすぼんやりとした笑顔を見せた。
「孫らも皆、じいちゃんに『明けましておめでとう』を言いに来たんだ」
「・・・はあ~」
「まずまず、元気そうだな」
「・・・ああ、はい」
「面会室借りて話しような」
「・・・はあ~」

狭い面会室にぎゅうぎゅう詰めになって、みんな義父と向き合った。
義父は下を向いておどおどとしていたが、
義母が「じいちゃん」と声を掛けると笑顔を見せた。
「〇〇くん(息子のこと)は××の役所に勤めることになった。
△△ちゃん(娘のこと)はもうすぐ美大の入試を受けるところだ」
「・・・はあ~」。
返事をしたあと、義父は何かを話そうと必死の努力をした。
面会室の机の上を指でさすりながら、ぽつりぽつりと言葉を絞り出した。
「・・・真ん中に・・・真ん中に・・・布団・・・敷いて・・・」
「・・・おしっこが・・・おしっこ・・・おしっこを・・・」
「布団・・・布団が・・・こう・・・」
それは、本当に訳の分からない単語の羅列だった。
でも、それを聞いた時、なぜなのか分からないけれど、
わたしの頭の中には義父が若かりし頃、
東京の大学に通うために一人暮らししていた、ということが浮かんで来た。
部屋の真ん中に万年床を敷いた小さな部屋が、
義父にとっての「独り立ち」の舞台だったのかもしれない、
この訳の分からない話は、義父が覚えている言葉の限りを尽くして子供たちに
「独り立ちすること」を説いているのかも知れない、と。

義父の話がひとしきり終わると、義母は「そうか」と言い、
バッグの中から封筒を二つ取り出した。
「じいちゃん、もうすぐ社会人になるから、〇〇くんにとっては
今年が『最後のお年玉』になる。
渡してくれるか?」
義母は義父に封筒を持たせようとしたが、義父の集中力は先ほどの話で切れてしまったらしく、
どうしても上手く行かなかった。
諦めて義母は自分で封筒を渡した。
その後、義母は義父にもう少し話をさせようと試みたが、
義父は下を向いてそわそわするばかり、
誰の目にも「もう限界」ということが明らかだった。
「もう、話、止めるか?」
「・・・ああ、はい」

面会室を出て、義母は食堂へ車イスを押して行った。
「じゃあ、おじいちゃん、わたしたちこれで帰ります」
息子が立ったまま義父に声を掛けたので、わたしは
「目の高さをおじいちゃんと同じにして、視線を正面から合わせて言ってあげて」と言った。
息子と娘が膝を床に着け、視線を合わせながら声を掛けると、
義父は笑顔を見せながら「うん、うん」とうなずいた。
そして、義母を残してわたしたち4人は病院を後にしたのだった。

「ばあさんは、親父の目の前で『最後のお年玉』を渡したかったんだろうな・・・」
帰りの車の中で、夫がぽつりと言った。
みんな無言のまま車に揺られてアパートに戻って来た。
「多分、いろいろな意味で今年が『最後のお年玉』になるんだろうな・・・」
わたしは心の中でそう思った。
言葉にはしなかったが、多分全員同じ気持ちだっただろうと思う。

義父が認知症と診断されてから、3回目の年明けだった。