まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

人生でホントに大切な問題には「正解」はない気がする

文科省が国立大に文系学部の廃止や削減などの組織「改革」を求めるって。
そうなったら小中高でも文系の学問の軽視が始まる。
文学や哲学や今以上に切り捨てられ、
歴史は今以上に忘れ去られることになるだろう。

愚策ここに極まれり。
敢えて言おう、「カス」であると!

理数系が好きな人たちは判で押したように言う、
「答えがスパッと求められるのが美しいし快感」なのだと。
でも、半世紀近く生きて来た上で言わせてもらうなら、
「人生でホントに大切な問題には『正解』はない」
というのが実感だ。

たとえば、かあさんを突然亡くして日々生きる力を失っていくとうさんをどうするか。
たとえば、認知症でDVに歯止めがかからなくなった義父をどうするか。
たとえば、いじめで人格が変わりそうなくらいになった子供をどうするか。

それらのすべてに「スパッと求められる正しい解」なんかなかった。
医学、福祉、教育、哲学、心理学、そのほかありとあらゆる自分が持っている知識と、
自分が人生から得た教訓やコツ、人脈などありとあらゆるものを総動員し、
それらを「自分の人生哲学」に基づいて組み合わせ、取捨選択して、
「これでいいのだろうか、間違っていないだろうか」と自問自答を続け、
相手の反応、周りの反応や動き方を見つつ微調整を繰り返す日々。
そうやってどうにかして「正解に近い解」を見つけ出そうとして必死の努力を続けるしかなかった。
とうさんの死、義父の医療保護入院、娘の私立中進学によって、
それらの難題が一応の終結を見た後になってからも、
「あれでよかったのだろうか?」
「あそこでああしていれば・・・」
と心の中で考える日々は続いている。
多分、わたしが死ぬまでずっと考える日々が終わることはないんだろう。

でも、こういうものなんじゃないのか?
人生でホントに大切な問題とはこんな具合で、
まるで「生涯磨き続ける玉」みたいなものなんじゃないのか?
そして、そうやって生き続ける上で、
わたしが文系学部で学んだことが役立っている気がする。
文系の学問には「たったひとつの正解」がほとんどない。
正解のない問題に取り組み続けることこそが、
その人の人生に対する粘り腰を生むもとにもなり、
その人の人生を終生豊かにするもとともなるような気がする。

効率至上主義。
利益至上主義。
そんなものが運んで来るのは、
ほんの一時だけの見せかけの幸福。
まるで、自分の住む家の腰板をはがして暖炉にくべるが如し。
ひとときだけは暖かくても、一寸先に待つものは・・・。

文系学部廃止、削減。
そんな政策は天下の愚策であり、即刻取り下げるべきだと思うが・・・。