まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

むずかる幼児にスマホを渡すのは・・・。

この頃買い物に行くと目に付くのが、
むずかる幼児(乳児のこともある)に無言のままスマホを渡す大人。
ベビーカーに乗った幼児が魔法のようにおとなしくなり、
必死で画面をこすったりタップしたりしている間、
大人はゆったりと買い物を楽しめる、というワケ。

わたしはこれを見て、この子の数年後が心配になる。

だって、保育園でも幼稚園でも小学校でも、
子供が「飽きたなあ」と思ったってスマホは貸してもらえないもんね。
特に小学校に入ったら、
途端に小一時間は集中して先生の話を聞かなければならなくなる。
先生は魔法使いじゃないんだから、
光や音が出て授業がRPGみたいな華々しさで進む訳はない。
問題をいくら解いたってレベルが上がる訳でもなく、
せいぜい壁に貼ってある「出来たよ表」の自分の名前のところに、
ごほうびシール(こんなもので喜ぶ子供自体もはや絶滅寸前だが)が増えて行く程度。
「面白くない」と感じた途端に、やる気を全部喪失、
という子供が確実に増えて行くことになるだろう。

子供を育てていると「面倒だな」と大人が思う場面が非常に多い。
でも、そういう場面って、後で考えてみると、
その後の子供の成長にとって大事だったなあ、と気が付かされることが多かった。
例えば買い物してる最中に子供がむずかったら、それは、
沢山の人がいる場所でどう振る舞うのがいいのかを教える絶好のチャンスだ。
杖をついてゆっくりと歩いているお年寄りがいる。
身体が不自由な人だって同じ空間で買い物をしている。
「ぶつかったりしたら大変だよね、だからお店の中では走らずに歩こうね」
「たくさんの人が買い物してるね。もしこの人たちがみんな大声出したらどうなると思う?」
「世の中にはいろんな人がいるから、子供が騒ぐ声が苦手って人もいるんだよ。」
そんな風にしながら、子供にいろいろなことを教えることが出来る。
一方的に教えるだけじゃなくて、
投げかけた問への答えから、自分の子供の考え方の傾向や、
思ってもみなかった面白い視点などに気付くことだって出来る。

むずかる子供に無言でスマホを渡すのは、
そういう絶好の「学びの機会」を子供と大人の双方から奪うことになるんじゃないかな。

結局、子育てって、「いつラクをするか」じゃないか?って気がする。
スマホを与えてラクしてると・・・後でその分のツケを払う破目になりそう。