まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

原敬!原敬!原敬!~NHK BSプレミアム「英雄たちの選択」を見た~

東京駅のとある切符売場の横の壁に、
黒っぽい金属のプレートがあるのを見たことがある。
そこが、原敬首相が暗殺された、まさにその現場であることを示すプレートだった。
寄ってみてつらつらと文章を読み、「へえ~」と思ったけれど、
原敬、と聞いてわたしの頭に浮かんだものは「平民宰相」と「大正デモクラシー」という、
たった二つのキーワードだけだったのであった。

・・・ごめんなさい、原敬首相。
あなたがこんなにも素晴らしい方だったことを、今日まで全く存じ上げませんでした・・・。

南部藩の家老職も務めたことのある名家に生まれたとは言え、
東北地方の諸藩の例に漏れず、戊辰戦争南部藩は朝敵とされた訳であり・・・。
原家も収入は10分の1に激減し(今、我が家の収入が10分の1になったら・・・
と考えたら、どんなに凄まじいことか想像出来るだろう)、
敬を東京に出すために先祖伝来の家や土地を手放さなければならなかったそうだ。
若かりし原敬に大きな影響を与えた人物は、中江兆民陸奥宗光
原自身の努力と素質(その抜きんでた語学力と事務処理能力を買われて、
フランス公使館勤務に抜擢された)、そして冷静な分析能力と、常に広い視野を持ち続けたことが、
原敬の柔軟で(当時としては)極めてユニークな思想を作り上げた。
彼はアメリカが世界の盟主国となるであろうことを見抜き、
アメリカと良い関係を保ち続けることが日本にとって大切であると考えていた。
また、「強兵」から「富国」へと舵を切ろうとしており、
暗殺当日「チャイナ・プレス」の取材に答えた中で中国を平和で平等な貿易の場とし、
共に発展を目指す考えまでも示していたという。
当時の皇太子(のちの昭和天皇)に、周囲の反対を押し切って半年間に及ぶ外遊をさせ、
各国歴訪の合間に欧州各地に残っていた第一次世界大戦の戦乱の跡を訪ねさせた。
(「世界平和の切要なるを感じた」という感想を漏らされたそうだ)
また、ロシア革命後の共産主義政府に対抗する勢力を後押しするという名目で、
シベリアに出兵していた日本軍の完全撤退を目指し(多分完遂しないうちに暗殺されたのだろうが)、
陸軍を(多分一部)撤退させた。
これは、日本の歴史上初めての、「シビリアンコントロール」であった。
原首相は大日本帝国憲法下で天皇の下に独立していた「統帥権」を、
憲法改正ではなく、周辺の法律を廃止したり新たに制定したりすることによって
文民統制」へ移行させようと考えていたのだ。

もし、原首相が、東京駅のあの場所に、あの日あの時間に行かなかったなら・・・。
あと10年でいいから、彼が日本の舵を取って居たなら・・・。
本当に日本の歴史は大きく変わっていたかもしれない。

日本史の時間、ただのキーワードじゃなく、
こういうことを学びたかった、と切に感じた。

ここからはわたしの独り言。
現実の高校の日本史の時間にどんなことが行われているかと言うと・・・。
「ああ、ここは別に覚えなくていいですから。
センターに絶対出ません」
娘が通う進学校の日本史の授業中、先生が毎時間「センターに出るか出ないか」によって、
歴史上の出来事に優劣をつけているそうだ。
娘は、「日本史が嫌いになった」とこぼしている。
悲しいけれど、これが現実。
歴史に学ばないものは、愚かな歴史を飽きることなく繰り返す。
原敬が暗殺されてわずか10年ほどの後、
日本軍は「満州事変」を起こし、泥沼の戦争の時代へと突入していった。
それが、「いつか来た道」にならないようにするためには、
教育の力が不可欠だと言うのに。
戦後70年、戦争を体験した世代がほとんど居なくなった日本で、
不気味な足音が遠くに聞こえ始めているような気がしているのは考え過ぎなのだろうか。
平和教育ヒロシマナガサキ、というのはおかしい。
戦前も平和を希求する人々はいたし、開戦に反対する人々だっていた。
戦争は軍部が勝手に暴走し、嫌がる国民を脅したり虐殺したりして、
無理やり進めていたものではなかった。
(一部に拷問されたり虐殺されたりした人々は確かにいたが、
クメール・ルージュによる知識階層殲滅のようなことが行われた訳ではなかった)
亡くなったとうさんが言っていたように、
ごく普通の国民にとって太平洋戦争は「神国日本が鬼畜米英をやっつけ、
世界に秩序をもたらすためのもの」であり、
大本営の嘘っぱち発表を信じていた大半の国民は、
「イケイケ、ドンドン」という昂揚した気持ちだったのだ、
1945年8月15日のあの放送を聞くまでは。
(俺はな、最後の最後まで「いつになったら神風が吹くんだろうか?」と思ってたぞ、
ととうさんは言っていた。
バリバリの理系頭の持ち主で、終戦時15歳になっていたとうさんでさえ、である。)
「いいか、あんた、忘れるなよ、戦争はな、ウキウキして楽しいものなんだ。
悲惨だとかってのはな、負けて初めて感じることなんだからな」
とうさんが何度もそう言っていたっけ。
何度も何度も、ちょっとずつ表現は違ったけれど、同じ趣旨のことを。

話題がずれちゃった。
同じ東北地方出身の者として、彼のことをとても誇りに思った。
番組内で紹介されていたのだが、原の雅号は「一山」。
白河以北一山百文(白河から北の東北地方は、山一つがたったの百文)」
と(主に薩長関係者から)馬鹿にされ続けた東北地方の悲しみを忘れないようにと付けたものだと言う。
(同様の理由で仙台に拠点を構える地方紙の名前は「河北新報」と言う)
それにも関わらず、日本、ひいては世界を見据える広い視野と視点を持ち続けた原敬という人を、
わたしは心の底から「素晴らしい人だったのだなあ」と感じ、
彼に尊敬の念を抱かずにはいられなかったのである。

いつもはテレビってほとんど見ないんだけど、
たまたま朝にスイッチを入れて良かったなあ!