まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

「江戸に行きたい族」の悲哀

大学生の息子から長電話。
息子は隔日で電話をかけて来る。
わたしたちはたくさんおしゃべりする。
実に様々な問題に関して。
 
息子の最近の関心事は
「世界は効率を追い求め過ぎるあまり、
人間が追いつけないようなスピードで動くようになっているのではないか?
周回遅れで付いて行けなくなったような老人や
世話をするのに時間が取られる子供などは、
今の社会システムでははじき出されてしまうのは必然ではないのか?」ということ、
そして「効率を究極まで追い求めることは、
即ち人間をロボットにしていくことに他ならないのではないのか?」ということ、
さらに「効率至上社会の中で流れに乗って生きているように見える人々は、
果たして幸せを感じて生きているのだろうか?」ということだ。
 
どんどん物を作ってどんどん売り、
どんどんお金を手に入れてどんどん新しい物を買う。
それが、少し前までわたしたちが思い描いていた「幸せ」の一つの形だった。
でも、その結果が地球環境の悪化を生み、
経済格差をさらに悪化させ、
さらに資源の枯渇もとうとう現実味を帯びてきた。
「お母さんたちの世代は未来に夢を持てただろうけど、
わたしたちの世代はそうは行かない。
政治も経済も世界中の全てに『手詰まり感』があって、
ともすると絶望しそうになってしまうんだよ」
息子はそんな風に訴えて来た。
 
息子の「手詰まり感」を増長させている原因の一つが「孤独感」だ。
息子はスマホを持っていない。
だからLINEもやってないし、TwitterFacebookもやっていない。
そういうものをごく普通にやっている大学生たちは
「友達として登録してる人数は1000人くらい」なんて人もざららしいが、
息子の場合は哲学科の友達がほんの数人と、
あとは中学時代からの友人が3、4人くらい、
先生やバイト先諸々を入れても20~30人くらいしか登録されていないそうだ。
「わたしね、江戸時代に行きたいと思うんだよね。
のんびりしてて、人が人らしく生きられる時間がたっぷりあったんじゃないかと思うからね」
 
奇しくも、うちの娘も息子と全く同じことを言っていたっけ。
 
多分、二人の念頭にあるのは杉浦日向子著「一日江戸人」という本だと思う。
その中で活写されている江戸時代の江戸人たちは、
狭い長屋に家族で身を寄せ合う質素な暮らしながら、
日々楽しみ、笑い、人と人とのつながりの中で、
毎日を活き活きと暮らしていた人々として描かれている。
この本を読んでわたしも「タイムマシンがあったら、
是非江戸時代の江戸に行ってみたいものだなあ」と思ったものだった。
 
「江戸に行きたい族」。
わたしは「一日江戸人」を読んで江戸に憧れる人々をそう名付けている。
効率至上主義の現代社会は「江戸に行きたい族」にとってまことに生きづらい。
「江戸に行きたい族」は日々をゆったりと過ごしながら、
「ムダ」と「ヒマ」を悠然と楽しみ、
小さなことにも喜んだり楽しんだり怒ったり泣いたりしながら、
人の温もりを感じて生きていきたい者たちだからだ。
特に今どきの若い人々の目から見ると、
「江戸に行きたい族」は「ウザい」者たちであり、
「ダサい」者たちであり、
「痛い」者たちであるから、下手すると仲間外れされ、いじめに遭い、嘲笑の的になる。
「江戸に行きたい族」はその本心を押し隠して、
ドライで感情など持っていないかのようなフリをしながら生きて行くしかないのである。