まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

映画「インターステラー」から考えたこと

土日かなりの時間を費やして「インターステラー」のレビューを記事にしたものの、
結局二つとも削除しました。
わたしのバリバリの文系頭では、あの作品に歯が立ちませんでした。
ブログを読み漁っていろいろな方の様々な見方に触れ、
「ああ、こんな見方もあるんだな!」と「AHA体験」の連続ではありましたが・・・。
 
とても理解することは出来なかったけれど、
見終わったあと、いろいろと考えさせられてしまう作品でした。
 
人間のせいで地球がボロボロになり、人類の生存すら危うくなっている・・・
という設定の作品として「風の谷のナウシカ」がすぐ頭に浮かびます。
ナウシカ」でも、恐ろしい戦争を経て世界は滅びかけてしまい、
植物の中には「瘴気」と呼ばれる有毒な胞子を放出するようになったものがあり、
人類は「瘴気」の影響を受けつつ、身を寄せ合うようにして点々と国を作って暮らしていることになっています。
生まれる子供たちは病弱な者が多く、無事成人出来る者は年々少なくなっていくのですが、
「風の谷」と呼ばれるナウシカが住む王国の人々は、
そういう運命を甘んじて受け入れつつ、ひっそりと暮らしているのです。
その「風の谷」が、世界を滅ぼしかけた恐ろしい技(兵器)を復活させ、
世界を意のままにしようとする国が起こした戦争に巻き込まれて行く様子、
そして「瘴気」の正体を見極め、世界を独自の方法で平和裏に救おうとするナウシカの活躍と、
その苦難の旅を描いている壮大な物語が「風の谷のナウシカ」です。
 
ナウシカ」の世界では、どんなに地球がボロボロになろうとも、
地球を見捨てて他所へ行こうという発想はないのです。
どんなに悲惨な状況になっても、人々はその中で必死に生きていこうともがき続けます。
わたしはそこに「東洋的なもの」を感じるのです。
わたしたちの国、日本もそうです。
地震津波、火山活動、洪水、干ばつ、飢饉・・・。
遥か昔から日本は繰り返し繰り返し天災に襲われ続けて来ました。
しかし、わたしたちの先祖はどんなにひどい状態になっても、
国を捨て、外へ新天地を求めようとはしませんでした。
身を寄せ合い、助け合って、その境遇の中で生き続ける道を選んだのです。
 
しかし、非常に「西洋的」な「インターステラー」では違います。
(多分人類のせいで)ボロボロになってしまった地球は見限られ、
捨てられてしまうのです。
地球を捨てて逃げ出すための道を模索する物語が「インターステラー」の核をなしています。
そして、そこで一見「奇跡」とも思えるような活躍を見せるのは、
人類の未来を憂えた人物ではありません。
「自分の娘にもう一度会いたい」という、非常にパーソナルな愛を貫いた人物が、
「奇跡」をなす力を発揮するのです。
この辺りにも、非常に個人主義的な西洋思想を強く感じました。
 
時々、わたしは不安になります。
人間は無から有を生む力は持っていません。
人間が作りだすものは、全て地球から材料を得たもの。
得た材料を人間がこねくり回すと、再生不可、分別不可なものに変わってしまうのです。
それは、殆どが微生物に分解されることもなければ、動物の餌になることもありません。
そうやって人間が新しいものを作りだせば作りだすほど、
地球はやせ細って行き、貧しくなっていきます。
そうやってボロボロにした挙げ句、「イザとなったら地球を捨てればいい」とは・・・。
なんだか釈然としないなあ、とわたしは思うのです。
そこに「愛こそが最強!」みたいな話をくっ付けられてもなあ・・・とも。