まだまだいなかのねずみ

日本の片隅で妻・母・非正規雇用者している栗ようかんの思索と日常

ドクター曰く「パキスタンでは「認知症」という診断名は存在しない」と。

最近あまりに物忘れがひどいし、喜怒哀楽が感じられなくなって来たしで、
本当に久しぶりにかかりつけの精神科のドクターに診てもらった。
「いやいや、お久しぶりですね~。で、今日は一体どういったご用件で?」
いつ会っても人を食ったような物言いのドクターである。
柔らかい笑顔を浮かべたメガネの奥で、
ちゃんと患者の反応を鋭く観察しているのがよく見ると分かるけど、
「人をバカにして!」とプンスカして帰ってしまう患者さんもいるそうな。
「こちらとしては、忙しくなくなってありがたいばかり。
うちに通ってると患者さんたちはどんどん薬も飲まなくなって、
そのうち病院へも来なくなるんですよ。
それで、時々好きなところへも旅行に行けるわけ!」
ドクターは時々10日間くらい病院を閉めて、奥さんと旅行へ出かけるのだ。
それはアフリカのキリマンジャロだったり、ネパールだったり、ブータンだったりする。
「砂漠のバラ」(バラみたいに見える、結晶みたいなやつ)とか、アフリカの民族楽器とか、
動物の皮が張られたスツールとか、とにかくそういったエキゾチックな土産品が並ぶ待合室は、
どう見ても精神科のものとは思えないし、いつも普通の服を着て、
ヘンテコなそら豆型のテーブルの向こうでニコニコしているドクターも、
とても精神科のお医者さまには見えない感じだ。
 
・・・と、長い長い前置きはここまで。
結論から言うと、わたしは認知症の心配は今のところ全くないそうで、
従って受けようかどうしようか迷っていた「脳ドック」も、
受ける必要性は感じられない、とのこと。
ただし、今のように家の中にひきこもっているのは非常に良くないので、
家族以外の人とつながりを持てるような方法を早急に考えること!と言われたけど。
 
さて。
ドクターは精神科のドクターらしからぬお医者さまなので、
診察の時に本当にいろいろな話をしてくださるのだ。
今日は、話の中で義父の認知症のことが出たので、
認知症関連の非常に興味深い話を聞くことが出来た。
 
これは、ドクターのお友達のパキスタン在住のドクターから聞いたという話。
パキスタンではどうやって認知症の治療をしてるのか?」と尋ねたドクターに、
その友人のドクターはこう答えたそうだ。
パキスタンでは、『認知症』という診断名は存在してないんだ」と。
驚いたドクターが、パキスタンには認知症の人はいないのか?と尋ねると、
「そういう人はちゃんといる」と。
「そういう人のことを強いて表現すると、『神に近づきつつある人』という意識で
周りの人々は捉えているようだ。
『これまで何十年もアラーの神の教えに忠実に従って生きて来た人が、
人生の最後に神に近づきつつあるのだ』と。
だから、周りの人たちは温かい目で見守り、皆で優しく支える。
認知症』なんて名前を付けて隔離したりせずにな。」
 
この話を聞いているうちに、わたしは危うく泣いてしまいそうになった。
(喜怒哀楽が無くなってるわけではないのだなあ・・・。)
そして、以前ボランティア講座の実習をした施設にあった、
徘徊老人用の「無限ループ廊下」をうつむきながら歩き続ける老人の姿を思い出して、
何ともやるせない気持ちになってしまったのだった。